時間は既に午前一時。
もっとも露伴は学生や会社員ではないので、早寝早起きなどを心掛ける必要はない。仕事の進み具合や気分で、自由に時間を割り振りする。
電話が鳴り出した時は、のんびりとソファの上で寛いでいた。
「はい」
非常識な奴だ、と思いながら受話器を取った。
しかし、電話の内容で、不機嫌になっていた露伴は一気に表情を崩す。
「遠慮はいらないよ、独り暮らしだからね」
電話を切った後、しばし考え、そしてキッチンへ向かう。
客をもてなすつもりもないのに、なぜか露伴の家はいつ誰が来てもいいように、来客用のカップや飲み物が準備されている。
「買った時は無駄になると思ったんだが……」
用意しておいて正解というところか。
確か前に来た時には、クッキーを出した。
同じというのは芸がない。
ああ、そうだ。露伴は棚を開ける。
偶然だが、今日の昼間、スコーンを作ったのだった。
料理や菓子作りが趣味だから、ではない。
時折、露伴は雑誌を見ながらキッチンに立つことがある。不得手だから見ているわけではない。まだ作ったことのない料理を試すからだ。
どんな過程を経て、どこでどれくらい力を込めて、どんな香りを漂わせて、それが完成するのか。そんなことはレシピを見れば説明されているが、実際のところは、やはりやってみなければわからない。
露伴は可能な限り、自分で体験できることは実行することにしている。いつそれが作品に役立つかわからないのだから。自力で不可能なことの場合だけは、多少楽をするようだが、読ませてもらっているが。
料理などは、割と簡単に実体験できるジャンルだ。
焼きたての菓子の香り、湯気の立ち方、表面の温度、中を開いた時の感触、触った時、口に入れた時。そういったものを十分に感じ取った後、露伴は残りを保存する。
一度に大量に作るのにも理由がある。
まず最初に成功させた後、わざと失敗してみる。失敗の原因は、わざとやっているのだから知っているとして、その結果どんな代物が出来上がるのかも確かめておきたい。
更に、冷めた後はどうなるか。二時間後、半日後、翌日。いつかそれを作品に生かす日が来るかもしれないので、どんなことでも試す。最悪の場合、かなり傷んでしまって、口に運んではいけない域に達したものも、躊躇うことなく舐める。
内蔵がはみ出した蜘蛛を舐められる露伴だ。大抵の物は自らの五感で確認しなければ落ち着かない。
読者に喜んで読んでもらえる良い作品を描くためには、日々の努力を怠ってはならないのだ。技術的には完成されてしまっている露伴がすべき努力とは、後はもうその程度しか残っていない。
紅茶の淹れ方も同じだ。
湯の沸かし方や温度から始まり、カップによって違う感覚を得られることも、とことんまで研究し尽くしている。葉も、殆どの種類は揃えてある。
飲み物は、紅茶やコーヒー、緑茶に始まり、烏龍茶に至るまで、一般家庭で使う物は研究済みだ。家でお茶を淹れるシーンを描く時、最早そのコマは完璧に近い仕上がりになるだろう。
広瀬康一はドアの前で緊張を隠しきれずにいた。
今夜の深夜放送は、絶対に見逃したくない。どうしても観ておきたい事情があるのだが、そんな時によりにもよって、テレビが突然映らなくなった。ビデオデッキの調子もこの前から良くなかったのだが、夜中になってから突然テレビが壊れるなど、いくらなんでもついていない。
普通に友達に頼みたいところだが、さすがに、二時からの番組を観たいから遊びに行っていいか、とは言い難い。人の家を訪問するには非常識な時間だ。録画を頼もうかと思って電話を掛けても、どこに長電話をしているのか通じない。
いよいよ困った康一は、背に腹は代えられないと、露伴の家をコールしてしまった。
テレビ観たさにここまで来てしまったが、この家に一人で上がり込んでいいものか。
この家でとんでもないことになってしまったあの出来事は、まだ記憶に新しい。
もうしない、と口では言っていたが、全面的に信用していいかどうかわからない。
危ない人だからなぁ……。
でもまあ、ここまで来ておいて、今更やっぱりやめると言おうものなら、あの人の機嫌を損なうのは間違いないだろうし、嫌とは言わせない強引なところもあるので、帰るに帰れない状況になることは目に見えている。
行くしかない。
そろそろ来る頃か。
露伴は壁の時計を見る。
紅茶とスコーンの用意は出来た。後は待つだけだ。
今露伴が一番に気にしていることは、これが手作りだと教えて自慢するかどうか、だ。多分彼は「へえぇ、これ露伴先生が? うまいもんですねぇ」と大袈裟にはしゃいで素直に褒めてくれるだろう。
だがうまく説明しなければ、後々「岸辺露伴は普段、家に籠もって菓子作りをしている変人だ」と微妙に間違った話が伝わって行くことになる。別に誰がどう思おうと構わないが、こういったことは最終的に妙な結果を生む場合もある。
ある日突然近所の主婦達が尋ねて来て、露伴を『お菓子教室』に誘ったりしたら。考えるのも嫌だが、そうならないという可能性はゼロではないのだ。
それにしても。
テレビ付きでリビングを貸すだけでは、少々勿体ない。
やはり後で少しだけ読ませてもらおう。
その際の記憶を消しておけば、読んだという事実は誰にもわからない。ページを破るという乱暴なことさえしなければ、またあの変な頭の高校生に殴られる心配もない。
読むだけなら構わないだろう、読むだけなら。
そもそも、なんだって、こんな時間に他人の家に押しかけてまで深夜放送を観たがるのか。その辺の事情を電話口で尋ねても、康一は曖昧なことしか答えなかった。
言いたくないような恥ずかしい理由なのだろうか。
気になる。
読みたい。
絶対に、それだけは読んでおきたい。
未だドアの前で、康一は悩んでいた。
露伴先生のことだからきっと、なんでこの番組を観たいのかって訊くだろうなー。
言いたくはなかった。
しかし露伴のことだ。何が何でも聞きたがるだろう。
考えようによっては、テレビを観たがる理由などという小さなことを、露伴が無理強いしてまで聞き出す必要はない。大したことではないのだから。
心配する必要はないだろう。
もう危害は加えない、と約束してくれたのだから。
多分、大丈夫だ。
やっと心も決まり、康一はドアの横の呼び鈴を鳴らした。
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