留守にしていた家は、必要以上に埃が溜まったように感じる。
 午後になってから露伴は仕事部屋の掃除をした。
 ちなみに、露伴が洗濯物を干す、という姿を見た人はまだいない。隣近所の住人はそこまで関心を払っていなかったようだが、実は広い庭のどこにもそのためのスペースは用意されていない。
 また、露伴がスーパーから買い物袋を下げて帰って来た、という姿も、誰も見ていない。
 近所の方々の殆どは彼の職業すら知らなかったので、時折こういう疑問を抱く。
「あの人、引っ越して来て三ヶ月以上経つけど、全然生活感がないわね。何やってる人なのかしら」
 意図的に隠しているわけではないだろうが、なぜか露伴の生活は人目につかないようにできているらしい。
 想像できる範囲内で言うならば、洗濯はおそらく全て乾燥機を使用して、布団を干したくなるような陽気であろうが、絶対に外には物を出さないと決めているか、或いは全て一気に済ませたいから、呑気に乾くまで待つようなことをしないか。
 食料についても、車を使って買いに行くのだろうが、それが歩くのが面倒だからか、それとも大事な手に重い荷物という負担をかけさせたくないかのどちらかはわからない。
 ゴミは普通に捨てているはずだが、何しろ漫画家は一般の主婦とは違う時間帯に活動している可能性があるので、誰も見ていないような時間に、膨らんだゴミ袋を持って外に出て来るのかもしれない。
「同じ人間だから、絶対に生活はしてるはずなんだけど……」
 と思ってはいても、近所の人間はそれほど露伴を詮索したがらない。
 生ゴミを溜め込んで悪臭を発生させたりするのならば問題だが、迷惑を被らなければそれでいい。近所に一人くらい、謎めいた人がいたっていいではないか。
 そういう結論に達しているようだ。
 せいぜい近所の住民が不審に思うのは、あの邸宅にどう見ても独り暮らしだということと、若く見えるのに相当な資産家のようだということ、そして何処でああいった服を買って来るのか、の三点くらいだった。


 一通り片付け終えると、露伴は再び仕事部屋の椅子に戻る。
 今日は夜まで、ここでゆっくりと瞑想でもしたい気分だった。
 しかし、物事は時折、露伴の思い通りにいかなくなる。
 階下から、露伴だけの静寂をぶち壊しにする音が鳴った。
 ピンポーン。
 客、だ。
 来客の予定は、常にない。
 居留守を使っても良かったが、今日は機嫌がいい。出てやろう。
「はい?」
「奥様はご在宅ですか?」
 いきなり馬鹿な質問をされた。
「ここは僕一人で住んでいるんだが? 何処かと間違えているんじゃない?」
「失礼ですが、お掃除などはどなたがされていますか?」
 全く話が見えなかったので、露伴はドア越しに話を続ける。
「……僕しかいないんだから、僕だろう」
「そういった方の為の便利なプランを本日はご紹介に参りました」
 やっと本題だ。
「僕は他人に家の中を歩き回ってほしくない。いらないから帰ってくれ」
 セールスマンはまだ外にいたが、露伴は無視してドアから離れた。


 便利だと?
 見ず知らずの他人にずかずか上がり込まれて、勝手にあちこち触られて、それで金を払わなければならぬとは言語道断。
 ここは露伴の家だ。
 露伴が露伴の稼いだ金で建てた、露伴の為だけの家だ。
 露伴の為の内装を施し、露伴の為に家具を取り寄せ、全てが露伴が住むためだけに用意された空間だ。
 たとえば、たまにやって来る編集を入れる場合でも、三十分以上はいて欲しくない。
 長時間、他人にこの家の空気を吸われるのは不愉快だ。露伴がいつでも仕事に打ち込めるようにまとめ上げられた、この家という閉鎖空間が、他人が出入りすることによって激しく乱されるように感じる。極端なことを言えば、棚の小さな置物一つ、勝手に動かされては困る。
 ある意味で、露伴は自分の家という頑丈な殻を作り上げ、そこに立て籠もっているのだ。
 それが守られて初めて、良い仕事をする上での必須条件が成り立つ。
 納得のいく作品を完成させるためには、それを前提として、人生そのものも構成する。
 漫画のため。全ては良い作品のため。自分はプロフェッショナルの漫画家であり、そのために払う犠牲は、もはや犠牲であって犠牲ではない。避けられない事由だ。


 不意に、先日この家に入って来た人間のことを思い出す。
 変な髪形の高校生と、頭の弱い高校生と、小柄な高校生のことを。
 たかが四つと言うが、四歳違えば十分連中はガキだ。相手にするまでもない子供だ。子供ではあるが。
 露伴はその中の二人の頭の中を、短時間とはいえどもしっかりと読み取っていた。
 特に露伴は、そのページを破り取って自分の為に役立てたいとまで思った高校生のことを気に入っていた。
 まるで何処かの漫画かアニメのヒーローのようだった。
 そういえば彼は、あんな非道い真似をした露伴に対し、それほど敵対心を抱いていなかった。普通、ページを破ったりしたら、もっと恨むものだろうに。
「いや、あれは元々人が良いんだな、きっと」
 しかし人を簡単には憎まないタイプだったとしても、今まで通りに露伴の漫画を喜んで読む気にはなれないはずだ。確実に、岸辺露伴という人間の実像に失望するはずだ。
 それすらも、彼にはなかった。彼は、ちょっと怖い思いをしただけで、岸辺露伴はやっぱり凄い漫画家なんだと改めて感じ入っていた。
 これはいいことだ。
 露伴はあの少年が気に入っていたし、彼は彼で露伴にマイナスイメージを殆ど抱いていない。
 もう破らないが、時々内容をチェックはしてみたい。彼はきっと、二、三年もしない間に、本当にヒーローになる。彼にはその資質がはっきりと見えた。露伴は彼が成長する過程をリアルタイムで読んでいたい。
 読みたいからだ。時々気づかれないようにこっそり読みたいからだ。
 露伴は口の中でその言葉を反芻してみる。
 そう。漫画を描くために、彼を読み続けていたいからだ。


 露伴はこの、必要以上に大きな家という殻を持っている。この中で、自分の作品を詰めて行くために。
 露伴自身は、この外殻を頑丈な物だと信じている。
 硬く、硬く作られた、露伴を守る殻。


 露伴が先程「読みたいからだ」と呟き続けたのは、ただそれが新しい楽しみだと本気で思っていたからなのか。それとも、変わってしまう自分を牽制するために言い聞かせていたのか。
 どちらにせよ、露伴が信じているほど、露伴を守るための殻は硬くない。
 いずれ、それは思わぬ出来事の結果として、簡単に崩れ落ちる。

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