しばらく空けていた家の中は、多少空気が淀んでいた。
スーツケースを二階まで運んだ後、露伴は家中の窓を開けて回った。
常識で考えて、一人で住むには、百三坪に七LDK屋根裏部屋付きの家は広すぎる。
応接用に整えられている部屋はあっても、そこに客を招き入れる気は殆どない。正しくは、『無い』ではなく、招くべき客が『いない』のだが。
リビングで風を受けながら、露伴は部屋の中を見回し、そして目を閉じた。
開け放たれた窓からは、様々な音が入り込む。
今、自転車が一台通り過ぎた。
街路樹の葉が微かに揺れる。
ハイヒールの、少し遅いペース。無邪気な笑い声。会話。
開かれたままになっている卓上の本のページが捲れ上がる。
カーテンと窓が触れ合う瞬間。微かな衣擦れ音。
自分以外誰もいない家。
自分だけの為にある空間。
数分そうやって過ごしてから、露伴は椅子から身を起こし、階段を二階へと向かった。
部屋の真ん中に置かれたままになっていたスーツケースの中身を、無駄のない動きで片付け始める。五分と掛からずに中は空になり、空いたケースも元あった場所に収納された。
それを終えると、露伴の手は仕事部屋の扉を開け、今度はもっとも慣れ親しんだデスクとそのチェアーに触れ、腰を下ろす。
と同時に、様々な映像が頭の中を駈け巡り始める。実際に見聞きした物、これから新たに露伴の右手が紙に描く物が入り混ざった形で。
全てが鮮明に頭の中に浮かんでいる。
これが最も理想的な状態。
露伴の内部から、尽きることなく湧き上がり続ける、作品のイメージ群。
完全に満たされている。
何の不安も抱かず、何の疑問も生まれない。
目を閉じれば、それらは更にはっきりとした形を成す。
聞こえるのは風の音だけ。
これが露伴を最も安堵させる、最高の時間だ。
だが。
この感覚に酔いしれることができるのは、ほんの僅かな時間だけに過ぎないことも、露伴は知っていた。
今頭の中にある物を全て紙に吐き出してしまった後は、どうしようもなく不安で危険な状態が待っている。『ヘブンズ・ドアー』を身につける以前ほどではないにしても、これだけは周期的に巡って来てしまう。
だからと言って、いつまでも微睡んでいることもできない。この安らぎの後には必ず、描きたいという衝動が露伴を襲い、無我夢中でペンを走らせ続け、そして頭は空洞化する。
描き終えた後の充実感は、ほんの数時間で失われてしまう。気づけば、焦燥感に支配されるままに何か新しい物を求めて彷徨い出す自分がいる。
描くべき何かがある、という安堵だけが、唯一の、そして絶対的な効果をもたらす精神安定剤と言えた。
まだだ。まだ来ない。
まだ、露伴の身体はペンを必要としていない。まだしばらくは、この安らぎの中にいられる。
この耳に届くのは、町を吹き抜ける風のみ。
他に誰もいない、自分だけの空間。自分ためだけにある家。
誰も露伴の思考を妨げない。露伴の世界を壊すことは誰にもできない。
瞼の奥には、数々の映像。
尽きることのない素材。次々と生まれるストーリー。
与えられた時間は僅か。
事の始めから既にその終幕を有する、露伴の最大の幸福。
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