かみ-なり【雷】(神鳴)@雲と雲の間、雲と地表との間に生ずる放電現象。また、これに伴う音。A雷神。雲の上にいて、虎の皮の褌をしめ、太鼓を打ち、へそを取るという。(広辞苑・「かみなり」の項より)



 休載期間中の旅行は、多大な収穫を得て無事に終了した。閑静な街並みを行き来する生活も悪くはないが、たまに異国を取材することも重要だ。
 露伴は今、久しぶりに立った杜王駅で一つ息を吐いた。
 まだそれほど長く住んでいるわけではないのに、何故か「帰って来た」という気持ちになる。これはいいことだ。感性がここを故郷と認めた証拠だ。それは、落ち着いて仕事に打ち込める場所、という意味合いも含んでいる事柄なので、常に最高のコンディションで原稿に向かえるだろう。
「お兄ちゃんだめだよ……! 隠さなきゃだめだよ!」
 突然、ズボンの裾を引かれた。
 見下ろした先では、三、四歳の少年が落ち着かない様子で露伴にしがみついている。
「ねえねえ、だめだってば!」
 尚も裾を引く。
 露伴の服は、他の人間の目から見れば、「どうしてあれで落ちないんだろう。ベルトが用を為してないっていうのに」と感じるような代物だ。
「何の真似だ、放せっ。こんなところでこの露伴に恥を掻かせる気か!」
 あまり大人に怒鳴られることに慣れていないらしく、少年はびくっと身体を震わせ、手を離した。
「だって……おヘソ出してたら、カミナリ様に取られちゃうんだよ。お兄ちゃん、大変だよ」
 それは腹を出して寝ている時の話だ。そもそも、腹を出したまま眠らせて、子供に風邪をひかせないようにと、母親はそう言って脅かすのであって……。
 と、露伴は言うつもりだった。が、果たしてこの目ばかりデカい子供に、その説明が理解できるのか。
 第一、臍を出しているのも、万が一取られた場合に困るのも、露伴一人だ。この子供に心配してもらう謂われはない。
 無視して行こうかとも思った。しかし、この駅はこれから先も何度となく利用するものだ。おそらくこの子供も杜王町に住んでいるのだから、顔を合わせる機会もこれが最後とは到底思えない。そして露伴は、こういった服を好んで着る傾向にある。となると、会うたびに「おヘソ取られちゃう」と騒がれることになるだろう。
 けして、露伴は子供好きではない。それどころか、煩わしい存在と五月蠅い生き物が大嫌いだ。活発な幼児などは、それにぴたりと当てはまる。
 こういう場合は好き嫌いで片付けない方がいい。今だけ我慢すればいい。そうすれば、後顧の憂いは綺麗に取り除かれる。
 仕方なく、露伴は子供の相手をすることにした。


 ところで、この子供の母親はどこにいるのか。一人で出歩くような歳ではないはずだ。まさか迷子か。
「おい、親はどこにいるんだ?」
「オヤ?」
「……『お母さん』は?」
「ママ、あっち」
 指の指し示す方向には新装開店のパチンコ屋が一軒。
「なんだとー!」
 こんなところにこんなものを放り出して、自分は呑気に遊興に耽っていると言うのか。
「ね、お兄ちゃん、おヘソ……」
 どうしろと言うのだ。露伴の手に余る存在だが、この臍を取られる云々に関してはしっかり解らせる必要がある。
「取られるのは子供だけだ。僕はもう大人だから、そんな心配はないのさ」
 こんな適当な言い訳で納得させられるかどうか怪しかったが、とりあえず試してみる。
 ちらりと様子を伺うと、少年は不服そうな顔をしていた。
 やはりだめか。
 もっとも、子供だけが割を食うシステムになっているのだ、と言われて喜ぶガキはいないだろうが。いっそ本当に雷でも鳴れば、臍を取られないという事実を証明できるし、実際に見ればこの少年も理解するはずだ。が、そうそう都合よく天気は変わってくれない。


 露伴は今、早く家に帰りたいと思っていた。
 と言うのも、スーツケースはそれなりに重くて邪魔だったから。更に、この旅で得た新作の構想を、家でゆっくりとまとめたいとも考えていた。
 それがどうして、駅なんかで足止めを食わされなければならなくなってしまったのか。
 全部こいつの親のせいだ。中途半端な知識で子供を翻弄し、挙げ句、放置してパチンコになど行くから、この露伴が迷惑を被る形になる。
 一番簡単な方法は、こいつの頭の中にある半端な知識を都合良く改ざんすることだ。幸い、露伴にはそれだけの力が備わっている。
 しかしそんな手段に出たのでは、岸辺露伴の沽券に関わる。こんな子供一人、口で言いくるめられないなど、信じがたい不名誉。
 絶対に、こいつを納得させてやる。
 当の子供は、露伴を見上げ、次に何か話しかけてもらうのを待っている。
 待てよ、こいつ……。
 もしかして、退屈だったから、誰かに構ってもらって母親が来るまで暇を潰そうとしているのか?
 そこまで考えていないにしても。しかし、この、露伴と目が合うたびに嬉しそうに輝く瞳。
 さては、臍の話は口実だな。適当に話しかけるための話題が欲しかったから臍にこだわっているだけで、普段はそれほど臍のことは気にしていないんじゃないか?
 なんとなく、これが正解のような気がしてきたぞ。
 露伴は口の端だけで笑った。
 ほんの数分だったが、この露伴を困惑させた報いは受けてもらおう。
 小さな子供を虐める行為に対して、抱くべき罪悪感などどこにも持ち合わせていない露伴は、少年を見下ろして意地悪く話しかけた。
「そうだな〜僕のヘソが取られるのは困るよな〜。もし取られたら、代わりに、誰か近くにいる人のヘソをむしり取って付けようかな〜。僕は誰でもいいんだけど……でも、そばにいる人から貰った方が楽だよな〜」
 言いながら、少年の腹部を突っつく。
 絶対に冗談を言っている顔ではなかった。勿論、万が一にも臍を奪われるような事態が発生したとするなら、露伴は本当に誰か手近な人間から代用品を取り上げるだろう。
 この人ならそうする。と、彼を知る人間なら確信したはずだ。
 露伴のことを全く知らないこの子供でさえ、なんだかわからない迫力に押されかけている。
「………ふえぇっ。ママぁー!」
 子供は本能で、露伴が怖いお兄さんだと悟ったようだ。
 臍のことは別にしても、誘拐されるか殺されるかのどちらかの可能性は感じ取ったのだろう。目から涙を溢れさせ、大声で母親を呼びながらパチンコ屋の中に走り込んで行く。
「これで、もう二度と僕には近付かないな」
 大変大人げない満足感を得て、露伴は踵を返す。


 駅前という場所でこういうことをすると、噂は簡単に蔓延する。
『漫画家の先生が、女の人からプロポーズされてた』
 という話も、まだ薄れていないこの時期に、新たな情報が追加された。
『何処かに旅行に行ってたらしい岸辺先生が、帰って来るなり、駅にいた子供を泣かせてた』
 こういった話を耳にした一部の人間は、訳知り顔に頷いたという。
「漫画家ってのは、変わった人が多いって言うからねぇ」

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