身体の方は殆ど治っていたが、まだ仕事を再開していなかった露伴は、この期間を利用して海外旅行に出ることにし、スーツケースを持って杜王駅へと向かった。
同時刻、駅前ロータリーのベンチの一つに、一人の若い女性が人待ち顔で座っていた。
彼女の足許には大きなボストンバッグが置かれており、時計と駅前広場を交互に見つめては溜め息をつく。
数十分後、ロータリーに差し掛かった露伴を見た彼女は、その奇抜なファッションにしばし目を奪われ、そして夢中で駆け寄った。
「先生! 先生!」
自分が呼ばれているとはつゆほども思っていないらしく、露伴はそのまま行き過ぎかけた。
「もうっ、岸辺先生ってば!」
そう名指しされて初めて、露伴が振り返る。
「会いたかったぁ。ミユキ、先生に会いたくてずっと待ってたのよ」
遠慮無くその腕にまとわりつき、女性は頬を擦り寄せる。その際、彼女のファンデーションが露伴の袖に少しばかりついてしまったが、本人は頓着せずに尚も顔をこすりつける。
見ず知らずの人間に無礼なことをされている露伴は嫌悪感を露わにした。
しかしその顔もまた違う意味で彼女を喜ばせたらしい。
「キャー! 先生、素敵。やだっ、そんな悩ましい顔しないで」
どこの誰かはわからないまでも、彼女が自分のことをどう思っているのかを、露伴はこれまでに何度も同じ経験をしていたので、すぐに悟る。
「……いつも読んでくれてありがとう」
「そんなっ、当然ですぅ」
「僕はこれから行く所があるので、これで失礼させてもらう」
するりと女性の腕を擦り抜け、露伴はまた駅へと足を向ける。
「あん。先生、折角会えたのに。一緒にいさせて、ね」
彼女も負けじと露伴に追いつき、再びその腕を組む。
「ミユキ、今日から先生と暮らすの」
「……どうして僕が君と暮らさなければならないんだ?」
絶対に離さない、といった具合にしがみつく彼女に、仕方なく露伴は質問する。
「幸せになるためですぅ。先生の御飯作ってお洗濯してお掃除するんですぅ」
「あいにくだが、僕は自分のことは全て自分でする」
「いやん、先生。ステキ、男らしいわあ」
たまに出てくるタイプの人間なので、露伴も今更驚かない。適当に歩き回って頃合いを撒いてしまえばいいことだからだ。
少し早めに駅に着いてしまったので、乗る予定の飛行機が出るまで後一時間は余裕がある露伴は、ここから空港まで行くのに要する時間等々を計算した上で、駅の周りを歩き始める。
ミユキは熱烈な露伴のファンであり、少年ジャンプは毎週欠かさず買い、単行本も買い揃え、ファンレターは毎週読み終えると同時に書き、単行本が出た日も書く。
近頃露伴を東京で見かけなくなったとファンの間で噂されるようになり、その代わりにこの杜王町周辺での目撃情報が入って来たので、いてもたってもいられず、ここまでやって来てしまい、駅前で張っていたのだ。
女性ファンの中には『結婚してください!』と手紙を書く人間がよくいるが、手紙だけでこの想いの全てが届くはずがない。第一、手紙に書いただけでは婚姻届にサインして貰えないし、結婚式も挙げられない。
ミユキもけして足の遅い方ではないが、露伴は彼女に合わせてくれないので、やや駆け足になったミユキは少し息を切らし初めていた。
でも、他人にペースを乱されない先生ってステキ。
彼女を嫌がっているからだ、という発想はない。
歩きながら、さりげなく露伴の格好をチェックし、また溜め息をつく。
ストイックな横顔だわ。お洒落だし。ああっ、おヘソが見えてるわっ。私よりウエスト細いわっ。
「先生っ、愛してますっ」
「!?」
堪えきれずにミユキは叫んだ。周囲の人間が一斉にこちらに注目する。
「好き好きっ、一生おそばにいさせて下さいっ。結婚してっ!」
思わず立ち止まってしまった露伴は、先程よりかなり不機嫌になっていた。
なんてクールな目! ああっさっきよりずっとずっとセクシーよ!
「もうどうにでもしてっ」
今度は露伴の胸に顔を埋め、背中に手を回して抱きつく。
一方露伴は、この我慢ならぬ状況に、そろそろ怒鳴り始めようとしていた。
ファンだというのはまだいい。露伴の作品を好んで読んでくれる読者は大切だ。しかし、こういった押しつけがましいのは、ファンの行動を激しく逸脱している。
露伴は彼女の手を掴むと、一気に路地裏へと走り込む。
「ヘブンズドアー!」
さすがにファンだけあって、簡単に本になった彼女は、そのまま倒れる。当然のことだが、露伴はその身体を支えようとしなかったので、派手な音と共に後頭部を打ち付けていた。
「この女、何か企んでいるのか? それとも本気でこの露伴と同棲する気なのか?」
確かめるまでもなく、後者だという確信があったが、それでも念のため読んでみる。
よからぬ妄想だらけの内容を全て読み下した露伴は、しばし考え込む。
「熱狂的な読者は、こういう非現実的な人生設計を脈絡なく立てるのか……」
それはそれで面白かった。
しかし迷惑だ。
読者は大切に、という意識だけはあるので、書き込む内容も慎重になる。
「せいぜい、『岸辺露伴個人に恋愛感情を抱かない』が妥当というところか」
それを余白に書き加えた時、すぐ上の記事が目に留まった。
『弓がこわれたから、岸辺先生と暮らしたい』
「どういう意味だ?」
ミユキは二十二歳。露伴よりも年上だった。
彼女には婚約者がいた。二年前には口約束だったが、去年、正式に婚約した。生まれて初めての大恋愛に、彼女は夢中になっていた。この恋は、男女の仲を取り持つ愛らしい天使がその弓矢によって二人を結びつけたのだ、と感じていた。
ところが先月、突然婚約を破棄された。婚約者が、別の女との間に子供を作ってしまったからだった。運命の恋だと信じていたものが突然消えた。
天使の射た恋に、間違いがあるはずはない。ならばどうして。
きっと、天使の持つ弓そのものが壊れてしまったからだ。大元の弓が壊れたから、二人に刺さっていた矢も消えてしまったのだ。きっと、そうだ。
けれど大丈夫。天使はすぐに新しい弓を用意してくれる。そして新しい矢で、ミユキと誰かを結びつけてくれる。
そんな時、愛読している雑誌に、一番好きな漫画家の写真を見つけた。想像していたのよりも素敵な人だ。女にだらしなかった元婚約者とは正反対の、理知的な顔。
天使も、今度はこんな感じの人を選んでくれればいいのに。いいえ、天使にだけ任せていてはいけない。自分から、この人に矢を刺さなければ、確実ではない。早く行って、今度こそ幸せにならなければ。
「咄嗟に僕を刷り込むとは、本物のファンだな。しかし、矢を突き立てられるのは一度で十分だ」
思う存分読み尽くすと、露伴はヘブンズドアーを解除し、彼女が正気に戻る前に立ち去る。
しかし、今ここで露伴という疑似恋愛相手を失うと、彼女は再び婚約を破棄された直後のショック状態に戻ることになるだろう。だが露伴にはもう関係のない事になってしまったし、それに、ただの『失恋した女』のサンプルというありふれた素材には興味を抱けない。
今頃彼女も、“いくら寂しかったからといって、どうして会ったこともない漫画家の所になんか押しかけてしまったんだろう”と、急に目が覚めたような感覚を味わっているだろう。
露伴は腕時計を見る。
まだ三十分以上は余裕があるが、空港のカフェで時間を潰すことにしよう。
切符を買い、スーツケースを手に、露伴はゆっくりと改札へ向かった。
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