常識的に考えて、赤字としか思えない店も、この町にはある。
 イタリア料理のトラサルディーがそれだ。
 テーブルが二つしかないとしても、あらかじめ一日の客数を決めた上で仕入れをしているのだろうから、その点は問題ない。本場のイタリアンを出す割には低価格だが、それも多分近くの農家や漁港から直接買い入れているのだろうから何とか利益が出ているとして。
 それでも不審な点が一つだけある。
 宣伝費を一円も出していないことと、立地条件の悪さ。つまり、客が来ていないのではないかということだ。
 確かに味は最高で、その上その日のコンディションに合わせた料理を用意してくれるのだから、これ以上はない贅沢だ。
 だが、毎日イタリアンを食べる日本人は少ないし、口コミだけではそう簡単に客は増えない。しかも場所が霊園近くの寂しい一帯とあっては、そんな所で食事を楽しめると思う人間はそうそういない。新規の客を確実に逃がしている。


 この日の露伴の目的は、以前康一や億泰の記憶からさり気なく読み取っておいたこの『トラサルディー』を取材することにあった。
 連日のタクシー乗り継ぎ生活は、二日間で終了していた。おおよそ五〇台の車に乗ったが、結局本に出来たのは半数程度。紙に描かなくても良くなったとは言え、やはり相性の問題がまだ克服できていなかったための結果だ。
 ちなみに、取材とは言っても、本当にインタビューをするわけではなく、隙あらば本にして直接読むつもりでいたことは間違いない。
 バッグの中には、出掛け前に描いた原稿も万が一に備えて持参していたのだから。


 昼時だというのに、店内に客の姿は全く無い。
 だがオーナーであるトニオは、その程度のことは気にならないのか、涼しい顔で下拵えを続けていた。
 しかし露伴が入ると同時にそれを察知し、いつもの笑顔で椅子を勧める。
「ランチを」
「はい。かしこまりまシタ」
 トニオが露伴を診る間、露伴も無遠慮にトニオを眺めた。が、すぐに試す気はなかったのだろう。されるがままにし、そのまま料理を待つ。
 その間、露伴はそうするのが癖のように、店内を観察していた。付け入る隙のない店内装飾は、逆に露伴の興味を引かなかった。唯一目に留めたものがあるとするならばそれは。
「カメラ?」
 立ち上がり、ずかずかと店を横切り、飾ってあった古いポラロイドカメラを掴む。
 近付く前からわかっていたことだが、日本製だ。完璧なまでにイタリア尽くしのこの店の中で、どうして無骨な日本製品がインテリアに紛れているのか。
「それは、前のお客様の忘れ物デス」
 前菜を運んで来たトニオには、露伴の言いたいことがわかったのだろう。聞かずとも答え始める。
「日本には、『袖すり合うも多生の縁』という言葉があると聞きまシタ。きっとこれも、エン。ですから飾ってマス」
 縁を感じたのまでは良い。そこまではわかるが、どうしてそれで、飾ろうという発想になるのかがわからない。
 後でその辺りの発想も読もう。こういったことは、聞くよりも読む方が確実だ。
「私が作るのは料理デス。食べた思い出とお客様の満足は残っても、作った料理がそのまま残ることはありまセン。カメラは、写すもの、そのまま残る。私とは違う世界、とても素晴らしいことデス」
 なんだか音楽家と似ているな。露伴はそう感じた。その場限りの、一回だけの芸術。大量に印刷されて残り続ける露伴の世界とは相容れないものだ。
「料理には食べてくれる相手、写真には観てくれる相手が必要だ。自己完結しない分野には違いないと僕は思うがね」
 テーブルに戻り、前菜に手をつけ始めた露伴の傍らで、トニオは何か閃いたらしく明るく告げる。
「オー! 私にはお客さま、露伴先生には読者ネ!」
「なんだと……?」
 名乗りもしないのにどうして知っているのか。
 トニオは慌てて厨房へ戻ると、一冊の雑誌を開いた状態で持って来た。
「さっき読みまシタ。とてもいい話デス」
 先月受けたインタビューが、露伴の写真入りで載っている雑誌だった。
 随分写真が大きい。僕はこんなに大きいなんて聞いていないぞ。
 これを読んだ人間なら、初対面であっても一目で露伴をそれと知ることができるだろう。
「芸術を愛する人は素晴らシイ。記念に、私の自信作をお出しシマス。勿論、その分はタダネ」
 そう言ってトニオは、コースには含まれていない料理を更に一品付けた。


 なんだか気が削がれた。今日は食事だけして帰ろうか。
 いや、だがその前に。
 支払いの時に、露伴はトニオを本にし、ざっと中に目を通す。
「世界中で修業しただけのことはあるな。密度の濃い人生だ」
 そして余白に書き込む。
“ポラロイドカメラのことは忘れる”


「ご馳走様、また寄らせてもらうよ」
「ありがとうございまシタ」
 トラサルディーを出る露伴の片手には、古いポラロイドカメラがあった。
「芸術を作る道具は、芸術家が持っているから、価値があるんだぜ」
 久しぶりに、読者以外の人間の褒め言葉が心に届いた気がした。
 飾っていても何の役にも立たない物だ。使ってやらなければカメラの意味がない。
 だからこのカメラは、この露伴が、資料を撮影する為に活用してやるよ。

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