今現在、露伴は休業中だ。
別に好き好んで休みを取っているわけではない。不慮の事故により大怪我をし、ペンを握れない状態にあったからだ。
人に殴られた、というのが直接の原因だが、生半可なモノに殴られたのではないため、完治も遅い。被害は露伴のみならず、仕事部屋まで半壊した。
腹立たしいのは、自分が被害者であるにも関わらず、加害者側に何一つ文句の言えない状況だということだ。確かに非は露伴にあったかもしれない。他人の記憶を破り取ってしまったのだから。
ここで注意しておきたいことは、ページを数枚破り取ったことについては悪かったと思っていても、他人の記憶に遠慮無く目を通したことには何の罪悪感も抱いていないという事実だ。
今後は、よほどのことがない限り記憶を破らないようにしよう、と、痛み続ける全身の傷をさすりながら決意していた。
だから当然、他人の記憶を読むのをやめるつもりはない。
医者は入院を勧めたのだが、個室が空いていないと聞いて露伴はそれを断った。何処の誰とも知れぬ輩と同じ部屋に寝泊まりするなら、自宅から数十分かけて通院した方がましだ。
身体が不自由なため、車やバイクを運転するのは無理だ。露伴の移動は専らタクシーになった。
人が聞けば、何処へ行くにもタクシーを多用するなど、無駄な出費だと驚くだろうが、幸いにして、露伴には親しい友人もいない上に、近所付き合いもないので、誰にも文句は言われない。
連載は休まざるを得なくなったものの、その代わりと言ってはなんだが、大変貴重な体験をした。自分以外の複数のスタンド使いと相見え、そして破れた。これに纏わる出来事は、東京の仕事場にいたなら到底味わえなかったことだ。その点では十分に満足していたので、傷が時々痛むことくらいは大した問題ではない。
五月半ばというこの時候は、日増しに夏の到来の近さを窺わせる。
露伴はタクシーの窓を開けた。
病院を出た後、本当ならば自宅へ戻るところを、露伴は敢えて少し遠回りをさせていた。
折角まとまった休みを取っているのだから、次の作品の構想をゆっくり練る良い機会だ、どんな小さな物事も見過ごすわけにはいかない。車の中からでも、十分に世界は楽しめる。
流れ続けていた景色が、不意に固定された。
前を見ると、たまたま信号が変わったところだった。
この瞬間、露伴はこの療養生活の間に考えていたことを実行してみてはどうか、と思いつく。
そう、あの日、康一くんは一コマ見ただけで本になった。原稿を“読む”必要がなかった。ということはだ。
「ちょっと……」
「はい?」
運転手に声をかけ、振り向かせる。
「ヘブンズドアー」
本当に怪我人なのか疑わしい早さで右手が空中を舞い、一瞬にしてそこに絵が浮かび上がる。
「……!」
次の瞬間には、運転手の顔がページとなって開いていた。
「紙でなくとも、可能か」
ケント紙にペンを入れた状態に限定されていない。何処に描いても有効だということが証明され、露伴はとりあえず満足する。
とはいえ、せっかく本にしたのだから、ついでに読んでおくことも忘れない。
毎日何十人という客と密室にこもって数十分から数時間を共にする。こういった職業の人間は、地味ながらも面白い小咄を幾つか抱えているものだ。
いくつかのエピソードを読み終えた後、露伴は運転手を戻し、そして次の信号の手前で車から降りた。
「お客さん、お宅まではまだ随分距離がありますよ」
「いいんだ。歩くよ」
そう言っておきながら、露伴はすぐさま反対車線を走るタクシーを一台止め、それに乗り込んだ。
「どちらまで?」
「適当に十分くらい流してくれたまえ」
「はあ?」
新しい遊びを見つけた子供のように、露伴はまた、頃合いを見計らって運転手を本にする。
思っていた以上に、タクシーというのは奇妙な体験をしているものだった。湧き上がる好奇心を抑え切れず、次はどんな話が出て来るだろうと期待を膨らませる。
まったく、釣り堀で糸を垂れているより確実じゃないか。料金というエサを出せば、魚はヘブンズドアーという竿の前に無防備な姿で現れてくれる。
これはしばらく退屈しないな。
怪我はかなり良くなって来ていたが、露伴はもうしばらくタクシー生活を続けることにした。
メニューページへ
Topへ