露伴がデパートの文房具売り場でバキボキにへし折るためのクレヨンを買っていた頃、同じフロアにあるアクセサリー店の店員はそんな彼の姿を目で追っていた。
 彼女が最初に露伴に目を留めた理由は、やはりその耳のアクセサリーが気になったからだったが、今はその顔を見つめながら「やだ、ちょっと好みのタイプかも」などと考えていた。
 だめ、だめ。問題なのはルックスの方じゃないわ。彼のあの耳よ。
 新しく入荷した商品を並べる手は休めていないが、目は露伴に釘付けだった。
 何かしら、あれ。ピアス? 違うわ、イヤリングだわ。
 あまりじろじろ見ているわけにもいかない。視線を感じた露伴が、いつこちらを振り返るかわからない。
 でも気になるわ。
 幸い、彼はクレヨンを選ぶことに集中しているらしく、こちらには全く気づいていない。
 イヤリングだわ。でも、変なデザインよね。変だわ、変よ。変だけど、いいわ、あれ。
 画材にはあまり興味のない彼女だったが、名称は知らなくともペン先だということくらいはわかる。ペン先をそのままの形でイヤリングに形成してあるらしい。
 いいわよ、だって似合ってるもの。なんてことかしら。
 彼女はこの売り場の主任になってまだ二ヶ月だったが、アクセサリーには入社当時から詳しかった。しかしあんな奇抜な物を自然に纏っている男性を見るのは初めてだった上に、彼の全体のバランスとしても完璧に思えた。
 どうしよう。聞いてみたいわ。どこで買ったのかしら。まさか自分で作ったの?
 しかしどう考えてもそれは、店員が客に向かってする質問ではない。
 でも聞いてみたいわ。ああ、どうすればいいの?
 そうこうするうちに、露伴は十二色入りのクレヨンセットを購入し、さっさとエスカレーターの方へ向かって歩き始めてしまった。
 と、その時。
「主任、すみません遅くなって。交替しますね、休憩どうぞ」
 今日の昼休みは、何故か急に立て込んだ都合上、全員少しずついつもより時間がずれてしまい、彼女も漸くこれから昼休みを取ることになる。
 狙い澄ましたかのようなタイミングで戻って来た若い店員に後を任せると、彼女は急ぎ足でエスカレーターへ向かった。


 デパートの制服姿でありながら、客の目も気にせずに走ったおかげで、露伴の姿はすぐに捉えられた。一つ下の階にもまだ到達していない。いつもはエレベーターを使う彼女が、なぜかエスカレーターに向かったことで、若い店員は不審に思っただろう。後から何か聞かれるかもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 彼女は見失わないよう、しかし気づかれないように適度な距離を保ってエスカレーターに足を乗せた。
 これが別の売り場の店員だったなら、おそらく彼の独特のファッションの方に目をつけただろうが、如何せん彼女はアクセサリーが専門だったため、その視線はずっとその耳で揺れ動くペン先から離れない。
 どうしよう。思い切って声を掛けちゃおうかしら。
 いきなり「そのイヤリング素敵ですね」と、アクセサリー売り場と刻まれた名札をつけた女が話しかけて来たら、普通はセールストークだと思うだろう。嫌な顔をされるのがオチだ。
 じゃあ、ナンパするってのはどうかしら。さり気なく軽い感じで「お兄さん、お茶でもどう?」っていうのは?
 が、見るからに仕事の合間という感じの制服姿で、それも変だ。
 だからといって、このまま行かせてしまう、などということも今の彼女には出来そうになかった。
 もっと偶然を装うのよ、偶然を。
 とは言ったものの、彼女の取った行動は、やや不自然だったかもしれない。
「きゃあああっ」
 一つ息を吸うと、彼女は悲鳴を上げ、そのままエスカレーターから勢いよく飛び降りた。
 露伴の背中目指して。
 計算では、悲鳴に思わず振り返ってしまった露伴が、落ちて来る彼女を支えてくれるはずだ。そういう位置を目指して飛び込んでいる。
 そしてその後は、顔を赤らめながら「ありがとうございます」とか何とか言い、「お礼に何かご馳走させてください」と話を持って行って、どこかのカフェでつまらない世間話でもし、そのついでに、何気なくイヤリングへと話題を移せば完璧だ。
 いける。いけるわ。
 自信を持って彼女は露伴へ飛び込んだ。彼は悲鳴を聞き、案の定こちらを見上げている。計算通りの展開だ。きっと彼は、その両腕で助けてくれるだろう。


 と思ったのも束の間、次の瞬間、彼女はフロアの床に頭から突っ込みかけ、慌てて両手を出したことで、鼻を打ち付けるのだけは免れた。
 痛いじゃないの。ひどいわ、なんでこの人、避けるのよ。
 ふらつきながらもなんとか立ち上がろうと顔を上げると、露伴は彼女を無視して更に下の階へと向かう所だった。
 信じられないわ。何、この人。
 その瞬間、彼女はここが職場だということも忘れて怒鳴り散らしていた。
「ちょっと待ちなさいよ! 貴方、なんで助けないのよ! 避けちゃったのは仕方ないとしても、人がすぐ横で転んでたら『大丈夫ですか?』くらい言ってもいいじゃないの!」
 その声に、露伴はエスカレーターに乗せかけていた足を止めて振り返る。
 何よ、その小馬鹿にしたような目付きは。あんた、私が気の毒だと思わないの?
「僕は急いでいるんでね。これだけ人がいるんだ、誰か一人くらいは助けてくれるだろう」
 急ぐとか急がないとかの問題かしら、これって。怪我人とか急病人とか見かけたら、そっちが優先じゃないの、普通は。
 最早何を言っていいのかわからなくなった彼女は、カッとなって更にたたみかける。
「違うわよ! 私は貴方に近付く口実が欲しいから、わざわざ落ちたのに、貴方が無視してどうするのよ! だいたい私はエスカレーターは嫌いなのよ! 本当はいっつも階段かエレベーター派なのよ!」
 何か余計なことまで喋り出してしまっている気がするが、とにかくこの男に何か話し続けていなければならないことだけははっきりしている。
 彼女が少しでも言葉に詰まれば、きっとその瞬間に、彼は何事も無かったような顔で立ち去ってしまう。直感で彼女はそれを悟っていた。
 露伴は面倒臭そうに眉を吊り上げた後、バッグからペンとスケッチブックを取り出し、素早く右手を走らせ、一枚破り取ると彼女に差し出した。
「その根性は認めよう。だが落ち方として、階段からの方が安全だと思うがね。今度有名人を見た時はそうしたまえ」
「……?」
 なんと書いてあるのかわからないが、文字、だ。サインのような。
 困惑する彼女に見向きもせず、露伴はさっさと下へ降りて行った。
「なんなのよ、あの人……」
 もう一度、その紙をよく見る。
 もしかするとこれは、『岸辺露伴』と読むのではなかろうか。
「岸辺露伴って……あの、気持ち悪い漫画描いてる人……? やだ、最悪。ナンパしなくて良かったわぁ」
 今日は厄日だわ。だからエスカレーターは嫌いなのよ。帰りは階段よ、階段。ちょっと足が痛いけど、もう二度とエスカレーターには乗らないわ。
 貰ったサインをくしゃくしゃに丸めると、彼女は近くのゴミ箱にそれを放り込んだ。
 やだもう、気持ち悪い。早く手洗わなきゃ。


 両手両足に擦り傷を負い、片足を引き摺りながら彼女がやっとの思いでカフェ・ドゥ・マゴに着いたのは、それから十五分後のことだった。

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