いつものように、ホルマジオが強制的に遠泳をさせられていると。
 橋の袂に人影が見えた。
 しかもその子供の口が、「シーザー」と動いたように見えたので、ホルマジオは立ち泳ぎのまま、自分を監督する子供にそれを伝えた。
「今、あの人がツェペリのこと呼んだぜ?」
 鬼教官であるその子供は、ホルマジオの真横の水面に腕組みして立っていたのだが、ホルマジオにそう言われ、陸へと視線を移す。
「ああ、スピードワゴンさんだ」
 知り合いらしい。
「あの人なら、放っておいても平気だ。勝手に渡るから」
 笑顔で手を振る人に、同じく手を振り返し、シーザーはまたホルマジオを見下ろす。
「さあ、休憩は終わり。後二十周、さっさと泳げ」
 もう湖の中を三十周もしているのに。
 しかも休憩という程休んでもいない。
 ホルマジオはしぶしぶそれに従い、再び泳ぎ始めようとしたのだが。
 何故か、その客の動きが気になった。
 橋の方に向かっていないからだ。
 橋を渡って、家を訪ねるわけではないのだろうか。
 たまたま通りかかって、そこにシーザーが見えたから声を掛けた。そういうことだろうか。
 とにかく何時間もただ泳いでだけいると、頭がおかしくなりそうだ。だからホルマジオは、気を逸らすのに都合の良い何かを常に探しながら泳いでいる。
 そんな状況下では、人がただ歩いているのを見ているだけでも、十分だった。
 ちゃぷちゃぷと水を掻きながら、ちらちらと陸に視線を送る。
 そんないい加減な泳ぎでも、速度はけして遅くはない。腐ってもこちらは厳しい暗殺の訓練を受けて来たギャング。湖の五十周や六十周くらい、余所見をしながらでもできる。
 と。
 陸地を行く客の足が、一カ所で止まる。
 そのまま、湖の方へ足を進める。
 普通ならば、当然沈む。
 もしや彼も、歩いて渡ることができる人間なのか。
 と思った時だった。
 今度こそ、ホルマジオは足を攣るのではないかと思った。
 ちょうど湖の畔は、長い葦が生え茂っているため、その付近がどうなっているのか、湖の中心に近い位置からはよくわからない。
 だから湖に近づいたその客の姿が、突然消えたように見えなくなっても、屈んだのか沈んだのか判別できない。
 しかし。
 葦から出て来れば、別。
 大変よくわかる。
 その客が、ボートを漕いでいる姿が、はっきり映る。
「……ここ、ボートがあるんだ?」
「ああ。橋は腐っていて危ないからな。家に来る人は皆、あれを使う」
 そう説明したところで、シーザーは目を細めホルマジオを見下ろした。
「なんだ、ホルマジオ。知らなかったのか?」
 知りませんでした。
 ホルマジオは心の中でそう答えた。
 というよりも。
 ボートを使っていいのならば。
「……なんでオレ、毎日毎日こんな修行させられてんの?」
 この一家が、実は、暇潰しと、単純に面白そうだからという理由で、ホルマジオをからかって修行をさせているのだということを。
 残念ながらホルマジオは知らない。
 手漕ぎボートの客は、そのままホルマジオの横を進んで行く。
「新しいお弟子さん? 精が出るね」
 顔に傷のある子供は、愛想よくホルマジオにも挨拶をして、家に向かってのんびりとボートを漕いで行った。

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