これから何処へ向かうかは貴方次第
船は、沈んだ。
戻らない遺体。
母になる女性は強い。
そう感じたのは、この日だった。
たった一人で戻った彼女は、こんなに呆気なく未亡人になってしまったというのに、けして涙は見せなかった。
空っぽの棺を地中に降ろす間、堅い表情のままそれを見つめる。
前にも、彼女のこんな顔を見た。初めて彼女と顔を合わせた、あの病室で。
気丈な女性だとは思っていた。
こんなことになっても、彼女はまだ耐えられるのか。
その強い眼差しが、何を拠り所にしていたのかを知ったのは、葬儀を終えた直後だった。
まだ見た目には殆ど膨らんでいない腹部をそっと撫で、彼女はそこに宿った命があることを語った。
腕に抱いた赤ん坊だけでなく、もう一人、子供が増えるのだと。
いきなり二人の子供の母になることを運命付けられたのだから、泣いている場合ではないのだと。
全てがこれで終わった、そう考えていいのかどうかはまだわからない。
沈んだ船の中で、あの二人が安らかに眠っている。そう納得していいのかどうかも。
少なくとも、あの一連の出来事を共に過ごした自分には、それでも尚生き残ってしまった自分には、これから先の数十年をどう生きて行くのか、ある程度定められてしまったようだ。
これからは自分が、この親子を出来うる限り守って行こう。
そのために必要なこと、そのために可能なことを為さなければ。
その決意を伝えると、彼女は首を振った。
遠慮がちなその仕草とは裏腹な、けして翻ることのない拒絶。
貴方は貴方の人生を生きればいい。
そう暗に告げられているようだった。
それでは自分の気が済まない。
力になりたい。
肝心な時に何の役にも立たず、結局自分だけこうやって安穏と生き延びてしまった。この悔しさが彼女に伝わったのかどうかはわからない。
大きな目がこちらを見上げた。
そして一言だけあった。それが精一杯の彼女の妥協であるかのように。
「いつか貴方を頼る日も来るでしょう」
それまでは、出来うる限り自分らしく生きていればいい。
けして他人の為に無理はせず、自分らしい生き方の先に、もしまた何か運命が交錯する時が来るのなら、その時は力を貸せばいい。
そしてそれは、今ではない。
もう、武器を振り回して無茶をする生活とは縁を切る。
これからは、もっと違う、別の生き方をしようと思う。
そう言うと、彼女は自分のことのように喜んでくれた。
「あの人も、貴方のその言葉を聞いたら喜んだでしょう」
ああそうだ。
あの人は、きっと喜んでくれるだろう。
頑張ってくれ、と。何かあったらすぐに言ってくれ、と。すぐに自分が駆けつけるから、と。
口先だけでなく、本当にそうするつもりで。
一年が過ぎて、彼女は男の子を産んだ。
顔を見に行ったが、まだ小猿のようなそれは、彼女に似ているのか彼に似ているのかもわからなかった。
小さな手に触れた。
驚いたことに握り返された。
赤ん坊なんて抱いたこともなかったので、彼女に教えられた通りに手を添えて抱き上げてみた。
壊れ物を扱うように大事に大事に。こんなに小さくてすぐに壊れそうなのに、思っていた以上の重さがあった。
どんな顔をしてその子を抱いていたのか知らないが、彼女は微笑みながら尋ねて来た。
「ご結婚はなさらないの?」
考えたこともない。
自分のような人間は、一人でいる方が性にあっている。
一人きりなら、家庭を持たなければ、どんな所にだって行ける。どんなことだってできる。
それに。
家族だったら、ここにいる。
ここにいる貴女達は、本物の家族以上に大切な家族だ。
迷惑だったらもう二度と言わない。
だがせめて、そう思わせていてほしい。
港にアメリカ行きの船が停泊している。
時々、思う。
あれに乗って、遠くへ行ってみようか、と。
誰も知る者のいない土地で、誰も頼らず、自分の力だけで何かをやってみようか、と。
そう呟くと、彼女は首を傾げた。
なぜ、しないのか、と。
何故だろう。
理由はわかっていたが、彼女にそれを言うのは躊躇われた。
この、残されてしまった彼の家族達から離れるわけにはいかない。そんな思いがどこかにあって、それが自分を押し止めさせるのだ。
しかし彼女は見透かしていたようだった。
「何もかも、貴方次第です」
何かあればすぐに連絡する。たとえ遠く離れた土地であっても、通信手段が全く無いというわけではない。時々の様子は手紙で報告する。何も心配はいらない。
結局、その年下の夫人に説得される形で、船に乗った。
自分の数少ない友人達にも、頭を下げて回った。あの家族達のことは頼んだ、と。
頼りになるかならないかは別にしても、できるだけ多くの手が差し伸べられれば、大抵のことは切り抜けられるだろうから。
これから何処へ向かおうか。
自分らしく生きたその先に、またあの家族達の手助けができる何かがあれば、それが一番理想的なのだろうが。
とりあえず今は、そんな先のことは考えずに行こう。
船は祖国から遠ざかる。
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