人魚姫は恋をした。
届けられたまま放置されている手紙がある。
着いたのは一ヶ月近く前。
投函されたのは、それより更に一週間は前だったと聞いた。
計算上では、その手紙が書かれた翌日に、シュトロハイムは死んだも同然だった。
いや。祖国に残して来た家族には、死んだことにして貰ったという方が正しい。軍にこうして残っていても、国では既に墓が作られている。
当然だ。
この身体で、どうやって家族の元に戻れる?
身体機能の殆どが機械になった今、たとえ何十年後かに退役する時が来たとしても、機密扱いのこの体は家族の元へは帰れない。
死ぬまで従軍。シュトロハイムはそう考えていた。
そして届いたこの手紙も、返事を書くことができない。返事を記せない手紙故に、開封することもない。
部下の幾人かは、シュトロハイムのこの体を恐れていた。
既にあの人は人間ではない、と目が語っている。
そんな連中は気に食わないので、早々に下がらせ、一人きりになった部屋で、シュトロハイムはまたテーブルに置かれたままの封書を見つめる。
手を伸ばせば届く。
しかし伸ばさない。
あの美しい文字は、母の手によるものだ。
妹たちの近況を知らせる、いつもの手紙だろう。
庭の薔薇や、ピアノのレッスン風景、そんな他愛もない話を綴った手紙。
殺伐とした空間に身を置くシュトロハイムは、懐かしい家族の姿を想像するだけで顔を綻ばせることができた。
定期的に送られて来る母の手紙には、そんな効果があった。
何が書かれているのだろう、あの美しい文字の下には。
見るだけだ。
見るだけ。
シュトロハイムは、もう随分長い間そこに置かれたままになっていた手紙に手を伸ばす。
一度だけ読んで、それで終わりにすればいい。
もう帰る所などない。
もう帰れない。
見るだけだ。
家族からの、最後の手紙なのだから。
変わらぬ、母の文字。
その内容に、シュトロハイムは眉を寄せる。
いつもと同じ、ではない。
この手紙だけは、いつもと違う。
最後の手紙だというのに、よりにもよって、こんな内容だとは。
シュトロハイムはいつもの倍の早さで手紙を読み終え、それを再び封筒に戻し、しばらく両手の上の乗せたまま動かなかった。
「……死んでいたのか」
こんなことが書かれていると知っていたなら、もっと早く開いていただろうに。
死んだのは、婚約者だった。
最後に会ったのは随分前だ。
次の休暇に帰ったら、その時式を挙げようと約束して旅立った。
しかしシュトロハイムは一度として戻らなかった。
休暇など取っている場合ではなかった。
この仕事が片付いたら、その時は休暇を申請しよう。毎回そう思う。そして一つ片付くと次の問題が湧いて来る。
永遠に休暇など取れそうになかった。
彼女のことを忘れていたわけではない。時々は手紙も書いた。面倒ではあったが、それが礼儀だと思って。
名家の令嬢にしては随分と大胆で、情熱的だった。
しかし、そんなことくらいしか知らない。
数える程しか会ったことのなかった女。
まともに話したことだって、一、二回あったかどうか。
『貴方が他の女性を愛することがあったら言ってくださいね。私、海の泡になって消えて差し上げます』
そんな冗談を真顔で言える女だった。
シュトロハイムは作り笑顔で「とんでもない」と応えた。
貴女よりも美しい女性はいない、と言ってやった。
あの時、彼女は喜んだのだったろうか。
よく思い出せない。
愛されていたのかどうかといえば、それもよくわからない。
ただ、婚約をしていただけの女。
家族のことを思い出して申し訳ない気持ちになることはあっても、彼女のことは何故か今まで考えなかった。
そうか。
このまま二度と家に帰らなければ、彼女の身の振り方の問題が浮上するのだった。
仮に彼女が生きていて、シュトロハイムの死を知ったとしても、まだ式を挙げていなかったことを喜んだだろう。
いや、悲しんでくれただろうか。
愛されていたと、そうはっきり言い切れない関係だった女は、どんな気持ちになるのだろう。
どちらにせよ、それはもう無意味だ。
彼女はとっくに死んでいた。
肩の荷が、一つ降りたことを、今は喜ぶべきだろうか。
部屋の外に、部下の一人が立った。
シュトロハイムはその封書を素早く暖炉に放り込む。
灰になるのは時間の問題だ。
部下は、例の物がスイスに向かっていることを伝えて来た。
シュトロハイムは頷き、部屋を出る前にもう一度、先程の手紙がどうなったか確認する。
燃え盛る炎の中で、それは既に形を失っていた。
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