「知ってた?この世の中に”絶対”は無いんだよ」
病室のベッドに横になり、けれど眠れず、天井を見上げていた時だった。
人見知りが激しい為に、入院してからは隣のベッドでなければ嫌だと駄々をこね、先に退院したはずなのにそばから離れず付き添っている弟が、簡素な椅子の上に座って呟いた。
「ん?」
考え事をしていたので、弟の呟きを聞き逃した。
改めてそちらに顔を向け、促したが、弟は小さくかぶりを振っただけだった。
また何か、妙な未来でも見えたのだろうか。
弟が絶対に手放さないあの本には、世界が展開している。
それを見続けるには、弟は幼すぎた。
未来は確定的な物なのだと諦観することを知ってしまった弟は、人見知りに加えて無口になり、子供らしい表情すら浮かべなくなった。
そんな弟の為に日頃からオインゴはあらゆる力を尽くして来たつもりだったが、日に日に、弟という人間がわからなくなる。
呟きが何だったのか、気になったが、オインゴはそれ以上の追求を諦めた。
そうしてまた、天井を眺めた。
未来を知ることのできる、唯一の人間。
それがオインゴの弟。
オインゴの怪我も快方に向かっていた、ある朝。
いつものように座って本を広げていた弟が、それをパタンと閉じて立ち上がった。
「どうした、ボインゴ?」
一人では病院内のトイレにも行けない弟。
それが今、本を片手に病室の外へと足を向けている。
「迎えが来るから……」
だから鍵を開けておく必要があるのだ、と弟は簡単に説明した。
その言葉通り、扉を半開きにした後、今度はベッドの反対側へ。
薄く開いたままの窓から入る風が、オインゴの頬を撫でて廊下へ抜けて行く。
「迎え?」
「ドアを全部開いて入って来たら、風で帽子が飛ぶんだ」
そう言って、窓を全開にした。
誰の帽子が飛ぶのか。
聞かなくとも、おそらくすぐにわかるだろう。
弟にとって、未来は確定したもの。
明日を迎える楽しみも、将来に抱く希望も、弟には無縁。
未来を語って聞かせるのも、弟にとっては昔話を延々することと大差ない。
だからオインゴは、あまり未来について尋ねない。
必要がある時は、ボインゴの方から本を見せて来るので、自主的に読むことはない。
それに。
オインゴは未来の全てを知ることは不幸だと感じているので、積極的に本を覗くのを好まない。弟の為に、それを読むだけで。
おそらく弟も、似たようなことを感じているのだろう。
未来を知り尽くすなど、楽しいことではないのだと。
だからオインゴは、訪ねて来る誰かの帽子が飛ぶまで、ただ待つことに決めた。
突然扉が開き、ボインゴの言う通り、開いた人物の帽子が吹き飛んだ。
目深に被っていたそれが無くなったことで、その男の顔がはっきりと見えた。
何処かで見た顔だった。
そう。
DIOの館で見た顔。
敗北した自分達に何の用なのか。
見舞い、ではないだろう。
ボインゴは「迎え」だと言った。
だが自分はまだここから動けるような状態ではない。ならば?
「よう……ちょっと弟借りてくぜ」
オインゴにそう告げると、男は帽子を被り直しながら、ボインゴの腕を掴んだ。
慣れていない人間にいきなり触られたことで、ボインゴは今にも泣き出しそうな顔をした。
こちらを見て、精一杯拒絶の表情を浮かべ、怯えた様子で助けを求めた。
しかし。
その目は。
助けなど本当は諦めているのだということを如実に語っていた。
嫌だけれど、拒否できないのだと知っている目。
オインゴにはすぐにわかった。
これも、確定した未来なのだと。
弟はこの男に無理矢理連れられて行ってしまうのだと。
抗っても無駄なのだと。
「お兄ちゃん……」
弟は手にしていた本の、とあるページを急いで繰ってオインゴの目の前に開いた。
そこに描かれていたのは。
ホル・ホースの小脇に抱えられて空港にいるボインゴ。
空港の時計は。
今から一時間後。
一時間後の飛行機に、この二人は乗る。
それはもう変えられない。
オインゴも、また、諦めた。
弟が攫われるのを、黙って見守るしかないと。そう諦めた。
一つ息を吐き、ベッドの上に起こし掛けた半身を、再び横たえた。
それと同時に、弟がまた呟いた。
多分、さっきと同じ言葉。
一度は聞き逃したそれを、弟は再び繰り返した。
「お兄ちゃん、知ってた? ……この世に、絶対なんて……無い」
何が言いたいのか、わからなかった。
未来が絶対であると、誰よりもよく知っている弟が。
今更何を言い出すのだろう。
それも、こんな時に。
目で、ボインゴを追った。
弟は、いつものたどたどしい口調で、それでも必死に話す。
「一時間後……空港にいる。でも……飛行機に乗ってる絵は……」
空港にはいる。だが、飛行機に乗るかどうかは。
「まだ決まってない……」
未来は。
確定しているであろう未来は。
まだボインゴの手の中に完全には降りて来ていない。
「読めるのは……いつも一部……」
全てを知り尽くしているわけではない。
だから?
ボインゴは求めている。
オインゴに、求めている。
今この場では、確かにボインゴは連れ去られる。
が。
空港まで連れられるのは間違いないにしても、その後飛行機に乗せられるかどうかはまだわからない。
つまり。
弟は、助けを求めるように唇を噛み締めた。
それを見て、オインゴは理解する。
そして。
確認するように、問いかけた。
「おまえ……空港で助けて欲しいのか?」
残念ながら。
弟はまだ幼いから、状況判断ができていない。
オインゴはまだ、立って歩ける状態ではない。
空港まで行くことは勿論、ホル・ホースの手から弟を奪い返す力も今は無い。
不可能な望みだった。
病室を出て行くホル・ホースの後ろ姿を見、オインゴは呟いた。
「……未来は絶対だ」
ボインゴの見る未来は、絶対。
外れるように感じるのは、それを解釈する人間の能力の限界によるものだ。
人間は未来に対し絶対では有り得ないが、未来そのものは絶対的だ。
誰よりもそれを知っているはずの弟が。
兄と引き離される瞬間に、その未来を否定した。
絶対ではないと言った。
「……まだ子供だから」
まだ子供だから。
弟はまだ、幼いから。
未来を見続けても尚、希望を捨てていない。
冷めた目をするあの弟が、将来どうなってしまうのか、いつもオインゴは不安だった。
だが、それは。
オインゴが思っているほど、悪くはないのかもしれない。
ボインゴはきっと、語らないだけで、その内では他の子供と同じように夢を抱いているのかもしれない。
それから数日が過ぎて。
病院に電話が入った。
弟からだった。
一人で飛行機に乗って帰る、と。
「そうか……病院までの道はわかるか?」
大丈夫か、と思ったが、口には出さなかった。
何事にも消極的な弟が、自発的に「一人で帰る」と言ったのだ。きっと大丈夫。
電話を切った後、オインゴはまた壁伝いに歩いて病室へ戻り、いつものように天井を眺めた。
見慣れたそれを凝視しても、何も面白いことなどないのだが、それでも眺めた。
ふと、イタズラを思いつく。
弟が来る頃に合わせて、窓を開けておこうか。
弟はそれすらも、本で知っているかもしれない。
けれど、オインゴは言うだろう。
「どうだ? 未来がわからなくても、おまえがいつ来るかくらいはわかるんだ」
弟はきっと、その台詞さえも、先に本で読んでいるのだろうけれど。
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