朽ち果てた鎖が今も束縛する
もっと早く、目を逸らせられれば。
魅入られたように動けなくなることがなければ。
もし、それが可能だったなら。
目が合った時、何か不思議な感覚が全身を襲った。
それが何なのか、普通に日本で高校生をやっている人間には、咄嗟に理解できなかった。
相手との距離は、多分十メートル以上はあったはず。
それが、ふとした瞬間にはすぐ眼前にまで迫っているようで、花京院はぞっとした。
瞬きの間に、本当に距離を縮められたのか、それとも恐怖がそう錯覚させるのか、わからないまま。
「日本人か?」
そう問われた時、相手の流暢な英語に思わず聞き惚れた。
学校で聞く教師のぎこちない発音とは全く違っていて、育ちの良さを滲ませていた。
「イ……イギリスの方、ですか……?」
初対面に人間に、恐れていることを露わにしては失礼に当たる。そんな的はずれなことを思って、花京院は精一杯虚勢を張った。
「ああ、そうだ」
「……旅行ですか……?」
英国を遠く離れ、エジプトに来ている男に、他のどんな可能性があったのだろう。下らない質問をしてしまったと、つい顔を歪ませる。
その気持ちは相手にも伝わったらしい。上品な笑みが浮かべられた。
「君は頭の回転が速そうだ。躾もされている。だが何より重要なのは、日本人だということ」
そこで一旦言葉を句切り、男の目はゆっくりと花京院を射抜く。
「そして……スタンド使いだということだ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。耳慣れないその単語。だが、それが何を指しているのかは、なぜかすぐに理解できてしまった。
男の目は、花京院本人ではなく、花京院の周りを浮遊する、あの緑色のあいつを見ていたのだから。
「見える、のか……?」
生まれて初めて、これの存在を指摘された。
誰にも見えなかったそれを、この男は見ている。
泣き笑いに似た表情を、知らず浮かべてしまった。それが今の自分にとって、弱味を握られたも同然だということにも気づかずに。
その顔の意味さえも、男は的確に理解したらしかった。最前より尚一層柔らかな笑み。穏やかな気配が花京院へ一歩ずつ近付く。
「理解し、分かち合える存在。……欲しいだろう?」
示唆される言葉の意味を考える必要など、無かった。
男の眼差し、態度、全てが花京院の感覚を虜にしていた。
伸ばされた腕を、迷うこともせずに取った。
「そう……来るんだ。歳は幾つだ? 高校生か? 何処に住んでいる?」
それが何の為の質問だったのかなど、わかるはずもない。
ただ、この男にはどんな小さなことでも全て打ち明けられる。そう思った。
そんな感情を抱いてしまっている時点で、既に自分に何か異常が起こっているのだと、それさえも気付けぬままに。
正気に戻ったのは、後戻りできない所まで踏み込んでしまってからだった。
自分の身体に、とてつもなくおぞましい何かが入り込もうと蠢いている。その瞬間初めて、花京院は熱に浮かされたようになっていた自分の姿を知る。
霞掛かった思考が一気にクリアになり、そして。
目の前の男が、自分の想像を超える恐ろしい生き物であることを感じた。
もう遅い。
おぞましい何かは、もうこの身体を浸食し始めている。
全てが手遅れだと悟り、無駄な抵抗を諦めたその時になって、最初に目が合った時の不可思議な感覚のことを思い出す。
あれが何だったのか、今ならはっきりとわかる。
あの時感じたあれは、危険信号。
本能が告げる、最大級のシグナル。
もっと早く、それに気づき、そして従っていれば、こんな目には遭わずに済んだかもしれない。
身体に入り込んだ異物は、その思考毎花京院の全てを汚染しようと活動を開始する。
このおぞましいモノがその目的を果たした時、自分は一体どうなるのだろう。
「……死ぬのか?」
ただじっと、崩れ落ちる花京院を見下ろしていた男は、少しだけ片眉を動かして反応する。
「死? いいや違う。このDIOの為に生きるだけだ」
初めて聞いたはずの男の名。
なぜか、ひどく懐かしく、そして心地良く響いた。
ああ、そうか。そんな風に思えるほどに、もう自分は汚されてしまったんだ。
抗い難い、甘い甘い感情が沸き上がり、花京院は流されるに任せた。
この異物を排除できない限り、どれほど抵抗しても、いずれは完全に洗脳される。直感でそれだけは理解していたので、今この場で打つべき手が何一つないことも知っている。
「さあ、日本へお帰り。そして、狙うのはたった一人。その男を始末して、またここへ戻って来い」
自分は人殺しの為の道具にされるのか。
本来の花京院の物である思考は、途切れそうになりながらも、そんなことを思う。
もし仮に、それが終わってここへ戻っても、この異物は取り除いて貰えないだろう。それだけは間違いない。自分はきっと、一生この男の言いなりになる。
操り人形になる人生なんて。
最後の最後に、花京院の自我が感じたのは、屈辱。
そして、花京院自身は表層から消える。
「返事は?」
「はい……DIO様」
花京院を縛り付け、行動と思考を制限させていた肉の芽が身体から引き摺り出された時、真っ先に蘇ったのは、エジプトで最後に感じたあの感情。
それがその後の行動を全て決定付けた。
はずだった。
それでも何故か、時折、自分でも理解できない感傷に支配される。
それは夜毎の夢であったり、一人きりでぼんやり異国の風景を眺めている時であったり、場合によっては和やかな談笑と共に食事をしている時でも。
ふとした瞬間にそれは蘇る。
DIOを思慕する気持ち。
もうあの芽はこの身体に残っていないというのに。あんな感情は植え付けられた偽りの物だったはずなのに。
あの男の施した呪縛は、日本の地で、空条承太郎の家の中で、朽ちて行ったのに。
それは結局一瞬のことで、原因を突き止めるより早く、そんな感情はまたどこかへ霧散する。
恐怖と嫌悪と憎悪と、そして屈辱。DIOに対し抱くのはそれだけのはず。
なのにこの、忘れがたい甘美な香りは、一体、自分の何処から湧き上がって来るのだろう。
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