声に出して言うのは簡単でも

 グロリアがあの話を始めたら、最後には喧嘩になる。
 解っていたので、エルメェスは視線を感じるのと同時に飛び出した。
 あの話が出そうな時の空気が読めるようになって、もう随分経つ。


 それだけの実力があるから、大学へ行くつもりなのだ。
 金を出してくれなんて一言も言っていないし、これからも言うつもりはない。
 黙って見守ってくれていればそれでいい。
 それに、とエルメェスは思う。
 自分のこの性格と愛想の悪さでは、客商売は向いていないような気がする。折角姉の人当たりの良さでそれなりの固定客を得ているこのレストランなのだから、自分のような無愛想なウェイトレスがいたのでは来る客も来なくなる。
 そうだ。絶対に向いていない。
 どちらかといえば。
 陸上でスターになって、それなりに有名になったエルメェスを、「あれ、妹なのよ」と客にさり気なく自慢する。そういった方法で貢献する方が似合っているはずだ。


 たまに行く小さなレストランで、ランチを摂りながら、エルメェスは店内を駆け回るウェイトレスの姿を目で追った。
 ああやって、ヒラヒラした格好で、トレンチにバランス良く料理を載せて、どんな不条理なことを言われてもいつもにこにこ、にこにこ。
 絶対に、似合わない。
 向いてない。
 自分が店に出ようものなら、五分で面倒を起こす。間違いない。客と喧嘩になるか、料理を客の頭にぶちまけるか、どちらになるかはわからないが。


 姉がどんな理想を抱いているのか、わからぬエルメェスではない。
 姉妹二人で、慎ましいながらも温かな店を経営し、貧しくても毎日笑顔で過ごす。そんな可愛らしい生活がしたいという姉の気持ちも、わからなくはない。
 確かに姉だけでは手が回らない部分もあるだろうし、もう一人くらい従業員が欲しいと思っていることも知っている。人を雇う余裕はないから、家族に手伝って貰うのが一番だ。それもわかる。
 でも。
 エルメェスにも夢の一つや二つはある。
 姉がこぢんまりした店を切り盛りしたいのと同様に、エルメェスもスター選手になりたかった。
 それだけの実力は備えている。なれるという確信も抱いている。
 こんな小さな店で終わりたくない。
 グロリアには申し訳ないが、エルメェスの気持ちは変わらない。
 だが、多分、実際にエルメェスが奨学金を貰って大学に通い出したら、その時はグロリアも折れてくれるだろう。
 結局最後には、グロリアはエルメェスを認めてくれる。
 そういう姉だ。


 そんなことを考えていた日常が壊れるまで、一週間もかからなかった。


 汚いドブの川。
 優しかった、気立ての良い姉は、汚れた川の中にいた。


 清められた遺体からは、もうドブの匂いなどしなかった。
 だが、その顔を覗き込むと、どこからともなく、匂うはずのない悪臭が漂って来るような気がした。
 けして裕福ではなかったにしろ、不幸ではなかった女性。
 最期の瞬間を、汚泥の中に浮かんで迎える必要は、どこにもなかったはずだ。
 そんなことを考えながら、葬儀を行った。


 臨時休業の店の中で、エルメェスは一人でテーブルを拭いた。
 父一人でも店を開けないことはなかったが、既にここは父ではなく姉の店として受け入れられている。明日からの営業はどうするのか。
 多分、明日も休む。
 だが、埃を溜めたままにしておいてはいけない。いつだったか、グロリアがそんなことを言っていたような気がする。休業日の前でも怠ってはならない、と。
 今更、こんなことをしても遅い。遅すぎる。


 一人きりの店内で、エルメェスは呟いてみた。
「あたし……愛想笑いもろくにできないけど、厨房の方ならなんとか手伝えるかもしれないよ、グロリア……」
 姉が待っていた一言が何かくらい、ずっと前から知っていた。
 エルメェスの口からその言葉が出るのを、グロリアは待っていたはずだ。
 知っていても、エルメェスに言うつもりはなかったけれど。
 今こうやって口にしても、本気でそう思っていない自分がまだここにいる。口先だけの薄っぺらな言葉だ。
 言うだけではだめだ。
 エルメェスが心からそう望まなければ意味がない。
 こうやって、声に出して言うのは、ひどく簡単であっても。


 明日には。
 いや、今夜遅くには。


 姉と二人で、この店を続けたかった。


 そう思える時が来る。
 それだけは確信していた。
 今はまだ駄目だけれど、近い将来、間違っていたのは自分だと、そう言える瞬間がきっと来る。
 その時こそ、姉の墓の前に立とう。
 そしてこの簡単に言えてしまう言葉をグロリアに聞かせる。

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