髪を梳く
席を立とうとした途端、アバッキオに髪を引っ張られた。
「……?」
今のは痛かったぞ、という気持ちを込めて、睨みつけながら振り返る。
アバッキオはそれでもまだ、ブチャラティの頭から目を離さない。
「オレの頭がどうかしたか?」
「いや……ちょっと……」
誕生日の関係で、アバッキオの方が半年ばかり年上ということになる。それでも、この男は「ブチャラティは上司、オレは部下」と言い続け、常にブチャラティより一歩後ろに下がる傾向がある。
何か聞いても、すぐに遠慮したがるのはその延長だ。
「言えよ。何だ?」
「大したことじゃねぇんだ。気にするな」
いや、気になる。
なぜなら、口ではそんなことを言いながらも、アバッキオの目はずっと、ブチャラティの頭を追っているからだ。
「アバッキオ……言いたいことがあるなら、言ってくれないか?」
「言うほどのことでもねぇからいいんだよ」
嘘だ。
何か言いたくて仕方がないって顔だ。
ほら、額に汗が滲んで来た。
あの感じ。絶対に嘘だ。
「その顔、舐められたいのか?」
そんな脅し文句を持っている自分も少し嫌だが、効果はあった。
アバッキオは素晴らしい反射神経を余すことなく発揮して後ろに下がり、ブチャラティとの距離を保つ。
これは、単に顔を舐められるのが嫌なのか、嘘だとバレたくないからなのか。
そんなのはどちらでもいいことだ。
アバッキオが口を割りさえすれば、他の些細なことなど今はどうでもいい。
「それで? オレの頭がどうしたって?」
「その前に一つだけ確認したいことがあるんだけどよ」
「言ってみろ」
アバッキオは躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「その……おまえの髪型、やっぱり何かこだわりがあって、その長さなのか?」
少し伸びてはすぐに切り、常にこの長さを維持しているブチャラティだからこそ、そんな質問をしたくなるのかもしれない。
「いや。そんなものはない。ただ、これに慣れているから、そうしているだけだ。それが?」
「そうか……だったら、いいんだ」
何か安堵したようなアバッキオに、ブチャラティは尚更納得がいかない。
さっきから一体何だっていうんだ?
「アバッキオ……いい加減、はっきり言え」
何を遠慮しているのか。
数分、アバッキオは迷っているようだった。
食事を終えた後であり、もうここにはアバッキオとブチャラティしか残っていない。
一つ仕事を任せたフーゴは真っ先に出て行き、その後ナランチャはどこかへ遊びに行った。
最後まで残っていたはずのミスタも、いつの間にか姿を消している。どこへ行ったのかはわからないが。
二人きりの、気まずい沈黙と張りつめた空気。
アバッキオがもう少し、ブチャラティを対等に扱ってくれたら、と思うことがある。
そうしたら、もっと肩肘張らずに付き合えるのに。
友達、というのは少し行き過ぎかもしれないが、それに近い関係にはなれたかもしれない。
何しろ、子供の頃にこの世界に入ってしまったブチャラティには、友人と呼べる人間は一人もいなかったのだから。
一人くらいは、それに準じる関係の人間がそばに欲しかった。
しかし、それは無理な相談かもしれない。
アバッキオは所詮は、部下でしかない。
同じ世界でしか友人を作れない身であっても、チーム内に友人を求めることは許されない。
結局、そんなものは夢でしかないのだろう。
さて。
問題は、この男の口をどうやって割らせるか。
それでもまだ、ブチャラティの頭をちらちら見続けている。
何か変だろうか。いつもと同じはずなのに。
そんなことを思いながら、頭に手を伸ばしかける。
「アバッキオ、オレの頭がどうか……」
「やめろ! 触るな!」
またしても、褒めるしかない反射神経だ。
二メートルは離れていたはずなのに、突進して来てブチャラティの手を寸前で止めた。
「アバッキオ?」
「いいから! ちょっと座れ!」
何か隠している。
しかしその正体がわからない。
仕方がないので、ブチャラティはまた元の椅子に座る。
すぐにアバッキオが背後に回る。
何だろう? この前、悪戯でアバッキオの髪を結った仕返しでもされるんだろうか?
「何かあるのか……?」
そんなつもりはなかったのに、うっかり自分の髪に触れてしまう。
それは偶然にも、アバッキオがほんの一瞬目を離した隙だったため、もうそれを止める腕はない。
「あ……!」
アバッキオの小さな叫びの後、室内は静寂に包まれる。
グチャッ……
耳に、有り得ない音が響いた。
指先にも、生温かい妙な感触。
ブチャラティは驚いて、その指を見る。
「……生クリーム?」
どうして自分の髪に、そんなものが?
「だから言っただろ。触るなって……」
濡らしたタオルを片手に、アバッキオが溜め息をつく。
「……生クリームがついている、と先に言ってくれれば……」
「おまえ時々、自分の髪の毛、手櫛で梳くから……その前になんとかしたかったんだけどな……」
今度こそ大人しくなったブチャラティの髪の毛から、慎重にクリームを拭いながらアバッキオが説明する。
「しかし、なんでこんなところに?」
何があったら、後頭部に生クリームがべっとりつくのだろう。
「ミスタだよ。さっきあいつ、逃げるように出てっただろ?」
「ミスタの嫌がらせか……?」
だとしたらお仕置きが必要だな。
「あいつにそんな度胸ねぇよ。ピストルズがケーキの取り合いしてただろ。終いにはケーキの投げ合いまでしてたってのに、見てなかったのか?」
「フーゴと話していたからな、そこまでは……」
そういえば、何か背後が騒がしかったような気がする。仕事の説明に夢中で、そんなことには構っていなかったのだが。
「投げたケーキが、スポンジごと、ここにぶつかったんだよ。……なんで気づかないんだ?」
言われてみれば、そんな感触があったような無かったような。
「あーあ……イチゴが絡みついちまってる……これ、少し切らなきゃだめかもな……」
その言葉に、そんなに酷いのか、とまた手を伸ばしかける。
「触るなって。もう少しで取れるから黙って座ってろ」
「……わかった」
全く気づかなかった。
不思議だな。
頭にケーキが直撃したのに、わからないなんて。
ブチャラティは自嘲気味に笑った。
その時になってやっと、十分ほど前から、自分の周囲で甘い香りが漂っていたことを思い出す。
ああ、あれはこの髪の毛についたケーキの匂いだったのか。
口は悪いが、指先の動きはひどく神経質だ。
アバッキオのその作業の感触を楽しみながら、ブチャラティは、後からミスタに何かペナルティを与えようと決め、色々と想像を巡らせる。
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