呼吸

 船に乗るとか乗らないとか。それ以前の問題だった。
 アバッキオはいつもの不機嫌な、それでいてうまく感情を隠せる独特の表情を浮かべ、さりげなく他のメンバーの様子を窺った。
 多分、誰も確信していない。
 それは安堵だったか恐怖だったか。


 出来うることなら、気づきたくなかった。
 しかし何故か、違和感を感じてしまった。気づかなくても良かったはずなのに。
 意識のないトリッシュを抱え、他の者に言葉少なに状況を伝え、今この瞬間に身の振り方を決めろと迫っているあの男。
 緊迫した状況だから、日頃とは多少様子が違っていて当然だとでも?
 いいや。騙されない。


 アバッキオは多少イライラしながら、ブチャラティの全身を眺めた。上から下まで。
 そうしておいて、他の者に気づかれるような、目立って異常な部分がないことを確認した時だ。
 一人、顔色を変えた者がいた。
 ブチャラティの話が衝撃的だったから、ではないはずだ。タイミング的にずれている。
 そうして、その新参者の少年の視線の先を追う。
 追って、思わず舌打ちしてしまう。
 手、だ。
 血が流れていない。
 口には出さずに罵倒する。あの馬鹿、皆に気づかれるだろ。それに。


 今更ながら。真実を知らされた気がして。
 アバッキオの気持ちは固まった。


 すぐに気づいた。
 戻って来てすぐにだ。
 何しろ、呼吸が。
 吐き出されるはずの息が、ない。
 胸が全く動いていない。
 呼吸を、していない。


 日頃から、ブチャラティの呼吸には気を配っていた。
 あまり感情を表に出さないタイプで、しかも体調を崩していてもそれすら口にしない。そんな人間のそばにいると、本人以上に本人の細かな視線や呼吸や仕草に目がいくようになる。
 アバッキオはそうやって、常にブチャラティを見て来た。
 そして、気づいていることを隠し、さりげなくサポートすることを心がけて来た。
 ブチャラティに気を遣わせぬよう、さりげなくだ。
 だから今も、わかってしまった。


 こんな時。いつもなら、ブチャラティの呼吸はやや弾む。それとは気づかぬ程度に、少しだけ回数が多くなる。本人だって多分わかっていない程度の差だが。
 そして。こめかみや前髪、目尻。緊張が高まれば高まるほど、危険であればあるほど、ブチャラティの指先はよく自らの顔に触れる。そうすることで落ち着くのかもしれないが、とにかくよく目にする。
 だが今。


 当然あるべき、身体的な微細な変化が、彼に起こっていない。
 アバッキオだけが知っている、ブチャラティの微妙な癖が、何一つ起こらない。
 それが何を意味するのか、知りたくなどなかった。
 だが。
 少年の視線を追った先で、一滴の血をも流さぬ手を見た。
 確信するしかなかった。
 そして、諦めた。
 もっとも、自分が最後までブチャラティに付き従うことは、最初から決まっていたのだけれど。
 何が起ころうと、それに変わりはなかった。ただ今は、それをより強く自らに戒めただけ。そう、何も変わらない。
 最初から決まっていたことだ。


 真っ先に乗り込んだ船。
 気づいていても、言わない。
 何も言わず、全て知らぬふりをして着いて行く。それが自分の役目。


 もしかしたら、ブチャラティが欲しがっていたのは、対等な仲間だったり、気の置けない友人だったりしたのかもしれないな。
 ふとそんなことを思う。
 いっそ、「俺は気づいているんだ」と言ってしまおうか。
 口を開きかけた時。
 必死の形相で泳いで追って来るナランチャが見えた。
 だからアバッキオはそれを言うタイミングを逃してしまった。


 もしかしたら一番大切だったかもしれないその言葉。それを口にする機会を、アバッキオは永久に失った。

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