唇を噛む
深夜に帰宅し、なかなか寝付けない。
そんな夜に、やっと微睡み始めたと思った矢先、誰かが外で扉を乱暴に叩く音でまた意識が浮上する。
時計を見れば、眠ったのは二時間程度。
ここ数年世話になっている老婆が、引ったくりにあったと泣きついて来れば、放っておくわけにはいかない。眠気など一気に吹っ飛んだ。
たまたま暇そうにしていたアバッキオを捕まえて協力させれば、犯人を割り出すのは簡単だった。
いつもは文句の多いアバッキオも、元警官の性分なのか、こういう捜査は黙々とこなす。時間と場所がわかっているのだから、犯行現場を再現した後、その犯人の後を付けて行けば、三十分も掛からない。
気の弱い男で、軽く脅しをかければ「もう二度としません」と頭を下げて、一緒に老婆の所へ謝らせに向かい、アバッキオに簡単な礼をして、それで終わり。
気づけばすっかり日も高くなっていた。
かなり遅い朝食を、馴染みの店でピッツァを買って済ませる。
通りを歩けば、殆ど全ての人間が笑いかけて来る。
睡眠不足が続いているのだが、気分は悪くない。
そう。
悪くなかった。
その瞬間までは。
「ブチャラティ!」
ついさっき別れたばかりのアバッキオが駆け寄って来るまでは。
「どうした?」
早朝から駆り出されたアバッキオは「もう一眠りする」と帰って行ったはず。どうしてまだこんなところにいるのだろう。
「ナランチャが事故起こしやがった」
「事故?」
免許も持っていない子供が、どうやって事故を起こしたのかわからず、ブチャラティは首を傾げる。が、すぐに思い至り、アバッキオに詰め寄る。
「また勝手に車を持ち出して練習してたのか?」
「……みてぇだな」
アクセルとブレーキの区別もまだつかない初心者が、天下の往来を走るなど無謀にも程がある。
「あれほど一人で乗るなと……」
「一人じゃなかったみたいだぜ。フーゴが横に乗ってたんだから」
「事故を未然に防げないのなら、いてもいなくても一緒だ」
吐き捨てるように言い、ブチャラティはアバッキオを促す。
「それで? 今どこだ? 警察か?」
「いや、病院」
無免許の事実をどう始末すべきか考え始めていたブチャラティの頭に、更に別の問題がのしかかった。
「誰に怪我をさせたんだ?」
「いや……ナランチャ本人が」
「フーゴは無事なのか?」
ナランチャが怪我をするような状況で、同乗していたフーゴが無傷とは思えない。
「フーゴはぴんぴんしてるらしい。どうする? 病院行くか?」
「……無免許の方が問題だ。先にそっちの始末をする。来い、アバッキオ」
アバッキオを連れ、ブチャラティは唇を噛み締めた。
部下が勝手な真似をするのは、自分の統率能力が低いからだ。そんなことを考えながら。
幸い、事故は車が多少凹んだ程度。助手席のガラスが派手に割れている以外、特に問題はなさそうだった。実際の現場を見、ブチャラティは、これでナランチャが怪我をするだろうかと訝しんだ。
車の名義はブチャラティになっているので、なんとか誤魔化し、ナランチャが運転していたことだけは公にならずに済んだ。
そうして面倒な始末を終えた後、ブチャラティはアバッキオを伴って病院へ向かった。
「あ、ブチャラティ……ごめん、車……」
「あんなものはどうにでもなる。それより、どうして勝手に車を持ち出したんだ?」
頬に大きな絆創膏を貼ったナランチャは、ブチャラティの厳しい言葉に小さな体を更に小さくする。
「……ごめんなさい。でも……オレが上手くなったら、ブチャラティ後ろに座らせて走れるだろ……?」
「運転くらい自分でする。アバッキオも免許は持っている」
「でも……オレも、ブチャラティ乗せて走りたい……」
それでもまだ諦めないナランチャに、ブチャラティは溜息混じりに通告する。
「今後一切、オレの許可なしに車を持ち出すんじゃない」
「でも……」
「車一つまともに扱えない上に、怪我までしておいて、まだ何か言いたいことがあるのか?」
冷たくそう言い切ると、ナランチャも俯くしかない。
「……でも」
どういうわけか、今日のナランチャは素直に「はい」と言わない。
やはり、ブチャラティは侮られているのだろうか。ナランチャに、認められていないのだろうか。
ブチャラティはまた、唇を噛んだ。
そんなブチャラティの様子を黙って見ていたアバッキオが、髪を五月蠅げに掻き上げて話し出す。
「……別にこいつも、あんたに逆らってるわけじゃない。誤解があるからそいつを解きたいだけだ」
「誤解?」
ブチャラティはアバッキオを振り返り、睨み付ける。
「その怪我、事故ったからじゃねぇぞ。怪我したから、事故ったんだ」
「どういう意味だ?」
「ウィンカーとワイパーの違いをいつまでも覚えねぇこいつに、フーゴがぶち切れた。で、窓割って、その破片でナランチャの顔刺しちまって、いきなり刺されたこいつはアクセル全開、車をぶつけた」
面倒臭そうに、簡潔に状況を説明するアバッキオの横顔。ブチャラティは近寄って頬を一舐めし、嘘ではないらしいことを再度確認する。
「……ってめえ、その脅しは心臓に悪いからやめろって言ってるだろ! 嘘なんかついてねぇよ!」
必要以上に動揺してはいるが、どうやら事実らしい。
「……そうか。ナランチャ、悪かったな。よく話も聞かず……」
ブチャラティはナランチャの頭を撫でて、詫びる。
「でも車壊したし、本当に運転下手だし……オレがもっと上手かったら、フーゴもあんなに怒らなかったはずだし……やっぱり、オレが全部悪い……」
ブチャラティは、顔を歪めて今にも泣き出しそうなナランチャに笑いかける。
「そんなに運転したいなら、郊外の、人のいない所ですればいい。今回はたまたま誰もいなかったからいいが、誰かを巻き込んでからじゃ遅いからな」
「……いいの?」
「運転を覚えて損はない。あの車も、使っていい」
「本当に?」
「その代わり……必ずフーゴを横に乗せて練習すること」
何度も確認するナランチャが、あまりにも嬉しそうに目を輝かせたので、ブチャラティは一つだけ条件を提示してみる。
あまり浮かれすぎるとまた失敗する可能性があるので。次も軽傷で済むという保証はどこにもないのだから。
「……なんでフーゴ……」
途端に、ナランチャの声のトーンが下がる。
今日の悪夢をまた思い出し、頬に手を遣る。
「フーゴは人に何かを教えるのが上手い。それに、上達の一番の早道は、厳しい教官の存在だ」
「……でもブチャラティ、フーゴは免許持ってないよ……?」
「持っていなくても運転技術はあるから、大丈夫だ」
実際、免許を持っているのはブチャラティとアバッキオだけだ。おそらく今後も、他の人間は面倒だという理由で免許を取得しないと思われる。
むしろあのアバッキオがご丁寧に免許を所持していることの方が不思議なのだ。いつ取ったものかわからないが、おそらくカタギの時代ではないかとブチャラティは想像している。
やっと話が収まったところで、ブチャラティはまたアバッキオを振り返った。
「おまえも、どうしてもっと早く事情を説明しない? それと、肝心のフーゴはどこだ?」
今度は自分が説教される番だと悟ったアバッキオは、それでも何か満足げに近寄って来る。
「説明は忘れてただけだ。フーゴは、新しい車買いに行った。責任感じてるんだろ」
「おまえ……何がそんなに嬉しいんだ?」
怒られるとわかっていて、機嫌の良くなるアバッキオがよくわからない。
尋ねると、アバッキオは益々楽しそうに笑った。
「さっきから血滲むくらい唇噛んでたぜ? 変に思い詰めるよりも、今の方がおまえらしい」
こういう時だけ年上らしい振る舞いをする。
「あんまり寝てないんだろ? 昨夜も遅かったみたいだから、帰って寝るか? 送ってくぜ?」
意外に自分のことをよく見ているらしいアバッキオの兄貴風に、今日は従ってみようか。
ブチャラティは頷き、ナランチャを連れて病院を後にした。
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