鼻歌

 偶然通りかかった。
 大道芸人にしては地味だったので、普段なら見過ごすところだった。
 楽器一つ片手に歌う男。イタリア語ではないので、詞の内容はさっぱりわからなかった。
「変な奴。……客、来ないじゃん」
 ナランチャも急いでいたので、すぐにそこを離れた。
 街角で見かけたそんな男のことは、その後起こった厄介事の始末をする中で、綺麗に忘れてしまった。


「うるせぇぞ」
 食事中、フォークを握るアバッキオの手がぶるぶると震え出す。
 もう少し力を込めれば、原型を留めずに破壊できるのではないかと思われるくらいの震え方。
「あ? 何怒ってんの?」
 眉間の皺が、その怒りの深さを物語っているようで、ナランチャは口に料理を運びながら顔を上げる。
「おまえだ!」
 フォークの刃先を、鼻先に突き付けられる。
「危ないだろ、刺さったらどうすんだよ?」
「刺してやりてぇよ」
 訳が分からず、きょとんとしていると、フーゴが脇腹を肘で突いた。
「食事中は静かにして欲しいんですよ、アバッキオは」
 小声で囁かれても、意味がわからない。
「オレ? 今日は騒いでないじゃん」
 いつもなら、ミスタと何か他愛ないお喋りをしているのだが、生憎ミスタはブチャラティと出掛けていていないし、今は特に空腹だったので、黙々と食べ続けていた。そのはずなのに、どうして怒られるのだろう。
「確かに喋ってはいねぇよな。だからって、鼻歌はねぇだろうが!」
 だんっとテーブルを叩き、アバッキオは手前のスープをひっくり返さんばかりの勢いで怒鳴りつける。
「鼻歌?」
 言われて、ナランチャはまたも首を傾げる。
「誰が?」
 目の前の皿に夢中で、そんな音など全く耳に入っていなかった。
 が。
 聞いてしまってから、「あれ?」と思う。
 今日、この店の中に客は自分達だけ。
 ナランチャとフーゴとアバッキオだけ。
 アバッキオが怒っていて、フーゴがこっそり教えてくれて、そして怒られているのは多分、自分。
 ということは。
「オレ?」
 ぽつりと問いかける。
「他に誰がいる!? あぁ!? てめぇの頭の中は何度に沸騰してんだ!?」
 もう我慢ならない、といった感じのアバッキオが椅子を蹴り倒し、そのままナランチャに掴みかかる。
「癇に障るんだよ! その調子っぱずれの変な旋律!」
「オレ、歌ってないよ?」
「さっきから小一時間ずっと口ずさんでおいて、今更とぼけんじゃねぇ」
 襟首を締め上げられても、わからないものはわからない。
 だんだん、この不条理な言いがかりに腹が立って来た。
 反射的に懐からナイフを取り出してしまったが、目ざといアバッキオはあっさりそれを叩き落とす。
「帰る! 食う気失せた!」
 ナランチャを床に叩き付け、アバッキオは振り返りもせずに大股に店から出て行った。


 本当に何もわからない。
 ナランチャは床に座り込んだまま、アバッキオの背中を見送った。
「何イライラしてんの、あいつ?」
 真後ろに誰かが立った気配を感じ、ナランチャはそれがフーゴであると確信して話しかける。
「君が全部悪いんだよ」
 ナランチャの両腕を取り、立ち上がらせながらフーゴは溜め息を吐いた。
「オレ? なんで?」
 今までの成り行きでも、まだ事情が掴めずにいるナランチャに、フーゴはゆっくりと諭すように語りかける。
「君は食事を初めてから、無意識に鼻歌を歌い始めた。それも狂った音程で。アバッキオも最初は食事中だと思って我慢してたんだ。でも、君は一向に歌い終わらないから……」
「鼻歌!? オレ、歌ってた!?」
 やっと、アバッキオが何をあそこまで怒っていたのかがわかる。
 フーゴに言われてもまだ、覚えがないので納得はできないが、でも二人揃って言うのだから、間違いなく自分は歌っていたのだろう。
「覚えてないけど……何の歌を歌ってたわけ?」
 一時間近くも同じ曲を口ずさんでいたなんて、一体何の歌だろう。
 そもそも歌なんて、滅多に歌わないのに。
「どうして君があんな歌を知っているかの方が気になるけどね……」
 フーゴはまだ食事を終えていなかったので、ナランチャにも座るよう促し、パンの追加を頼む。
「だから何?」
「どこで覚えたの、あれ」
「何を?」
 そんなに珍しい曲だったのだろうか。
 最近自分が耳にした曲を順番に思い出し、一つずつ可能性を消していく。
 ミスタから借りたCD。でもあんなのは、いつもミスタが大声で歌っているから、ナランチャが知っていてもおかしな話ではない。
 ブチャラティやアバッキオの趣味も同じ。よく二人の部屋に入り浸って聴いているから。フーゴのも、そう。
 結局自分では想像もつかなくて、ナランチャはフーゴが教えてくれるまで待つしかない。
「シャンソンだよ、それもすごく古い」
「シャンソン?」
 そんなの、一曲も知らない。
「ただしちょっと音程が外れてたけど……アバッキオも原曲をちゃんと知ってるんじゃないかな……ほら、こういう曲」
 言うなり、フーゴはその旋律の一部を口ずさんでみせる。
「すっげー! 上手い! やっぱフーゴはすごいよなー!」
 聞き慣れない単語の幾つかはフランス語。意味はさっぱりわからないけれど、でも上手いものは上手い。
「……あれ?」
 今と同じようなことを、つい最近どこかで思ったような。
 それに今の曲。
 シャンソンなんて興味ないのに、なぜかそのメロディーには聞き覚えがあった。
 どこで聴いたのだろう。
「うーん……どっかで聴いたんだけど……」
「聴いたも何も、さっきまで自分で歌っていた曲でしょう?」
「んー……?」
 呆れ顔のフーゴの言葉も、もう耳に入らない。
 どこだ。
 どこで聴いたんだ?
 この曲を、どこで聴いたんだろう。
「……まあ、古いフランス映画で使ってた曲だから、有名と言えば有名なんだけど……」
 悩み続けるナランチャを見かね、フーゴは苦し紛れにそう結論づける。
「うーん……?」
 それでもまだ頭を抱えるナランチャ。
 人が折角助け船を出してやったのに、それでもまだ納得しようとしないとは。フーゴのこめかみに、少しだけ異変が見られた。
 しかし、記憶を探るナランチャは、それに気づかず。
 当然、フーゴが切れる前に避難することもできなかった。

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