泳ぐ視線
「その髪、なんで伸ばしてんの?」
食事時に五月蠅げに掻き上げた瞬間、左隣にいたナランチャが聞いてきた。
もしかしたら今、毛先が顔にでも当たったのかもしれない。
わざわざそれを確かめる気もなければ、質問に答えるのも面倒だったので、聞こえない振りをして食事を続ける。
返事が無くても気を悪くしないのが、このガキの良い所だ。
食事が終わったらまたフーゴと中断しているお勉強会を再開しなければならないので、急いでフォークを動かし始める。怖い先生の「さっさと食え」という視線に気づいたからだろうが。
だいたい、おまえだって人のこと言えない頭だろう。
その中途半端な長さの髪は何だ?
伸ばすなら伸ばす、切るなら切る。どちらかにすればいいだろうに。
答えるつもりが無い上、当のナランチャが既にその質問をしたことすら忘れかけている状況で、アバッキオは一人で髪の長さについて考える。
そうなってくると、自然に手の動きが鈍くなる。
明らかに何か考え事をしながら食事をしている、というのが誰の目にもわかり始めた頃、それまで無言だったブチャラティがアバッキオを呼ぶ。
「髪を伸ばしている理由、思いついたか?」
「え……?」
今、名前を呼ばれたことまでは気づいていた。が、その後に続いた言葉は殆ど聞こえていなかった。思わず聞き返したアバッキオだったが、ブチャラティは同じことを二度は言ってくれない。
「聞こえていなかったのか? それとも、まだ言い訳が思いつかないのか?」
「悪い。聞いてなかった。何の話だ?」
話が噛み合わなくても、ブチャラティは怒らない。だから安心して聞き返せる。
「おまえが髪を伸ばしている理由だ。ナランチャに訊かれてから、ずっと考えていただろう? いい理由が何か思いついた頃かと思ってな」
別に言い訳を考えていたわけではない。
伸ばしているのに理由なんかないだけだ。だから自分でも、どうしてだろうと考えていただけで。
今思ったことをそのまま言うと、そちらの方が言い訳に聞こえるような気がした。
ので、アバッキオはわざとふて腐れたような顔を作る。
「そんなつまらないことを考えてたわけじゃねぇ」
それで納得したかどうかは定かではないが、ブチャラティは「そうか」とだけ答え、テーブルのグラスを傾けた。
「なー、なんでその髪、食う時もそのままなわけ?」
右隣のミスタまで、同じようなことを言い出す。
また何かミスタの食事を妨げるような動きを、この髪がしたのだろうか。
ミスタの左手が弄んでいるのは、どこかから持って来た短い紐だ。
まさかそれでこの髪の毛を結おうってんじゃないだろうな?
いや、百歩譲ってそうしてやってもいいが、ミスタにやって貰いたくはない。こいつのこの手に、そんな器用な真似ができるはずがない。絶対失敗する。変な髪形にされる。
多分、ここにいる全員に笑われる結果になる。
ここで下手な言い方をすると、ミスタをその気にさせる可能性があったので、アバッキオは慎重に言葉を選ぶ。
が、結果的には、その紐を使わせない為の言葉しか出て来なかった。
「……変な癖が付くから嫌なだけだ」
「癖?」
何か不満そうな顔だったが、この場はこれでいい。
「なあ、本当につくかどうか、試させろよ」
しまった。余計に煽ったか。
こいつにやられるのだけは勘弁してもらいたい。
誰かもっと、器用そうな奴が手を出して来ないか?
そう思ってさり気なく見回してみたが、フーゴとナランチャは早くもノートとペンを持ち出して何か真剣な表情になっており、もうこちらのことなど見えていない様子だ。
だめか。
いや待て。
いるじゃないか。器用な奴が。
自分の髪の毛だって、あんなにきっちり編み込んでるんだ。絶対に上手い。
救いを求めるようにブチャラティの様子を窺った。
しかし、ブチャラティは何か達観したように、フーゴとナランチャ、アバッキオとミスタの遣り取りに微笑を浮かべていた。
手を出す気など、全くなさそうだ。
「なー一回だけ。一回だけだから」
目の輝きが違っている。
アバッキオの頭で遊ぶことしか、もう考えていない。そんな顔だ。
思い切り睨みつけてやったつもりなのに、ちっともわかっていない。
こいつには通じないのか。
さっさと食って、席を立つのが最良の策かもしれない。
そう思い、アバッキオは無言で皿の中身に集中する。
しかし、先程から考え事ばかりしていたせいで、皿の中は殆ど減っていなかった。
一方でミスタの方は、とっくに食べ終えた綺麗な皿を前に、退屈そうに紐を弄り、ちらちらとアバッキオの髪の毛を見ている。
これでは、一、二分以内に、ミスタの思惑通りになってしまう。
何か、こいつが食らいつくような、別の話題でもあればいいんだが。
今のテーブルのこの状況から言って、そんな話を振ってくれる人間は現れそうにない。自分で何か話を逸らすしかなさそうなのだが、そんなことをやっていてはいつまで経っても皿は片付かない。
ミスタに遊ばれるだけは嫌なので、何とかしたい。
そんなアバッキオの気持ちを察したかのようなタイミングで、ブチャラティがミスタの名を呼ぶ。
「先週末には、報告書を纏めると言っていただろう? 午後から空いているから、見てやる」
多分、まだ何もやっていなかったのだろう。ミスタは慌てたように立ち上がった。
今から別室に籠もって、こっそり適当に作るつもりだ。
空いた椅子には、先程からミスタの手にあった紐が置き忘れられている。
こういうものをいつまでも置いておかない方がいい。
アバッキオはそれに手を伸ばして取り上げると、そのまま自分のポケットに入れた。
その仕草をちゃっかり見ていたブチャラティが、くすりと笑った。
「……?」
「助けてやったんだ。高くつくぞ、忘れるなよ」
困っていたことに気づいていたのなら、もっと早く助けてくれれば良かったのに。
そんなことを思っていると、ブチャラティはまた笑う。
「おまえ、本当に切羽詰まると、視線が泳ぎ始めるんだ。助けてくれ、って。そのサインが出たから、ちょっと口出ししたんだが」
そんな癖など、自分は持っていない。
そう思うが、癖なんて奴は、自分では気づかないものなので、きっぱりと言い切れない。
「だっておまえ、あんまり早く手出しすると却って不機嫌になるだろう? だからサインが出るまで待ったんだぜ?」
見ていないようで、しっかり部下の一挙手一投足に気を配っているブチャラティに、アバッキオはそれ以上言うべき言葉が見つからない。
ここは、ありがとう、とだけ言っておくべきか。
それでもまだ不服なアバッキオが口ごもっていると、ブチャラティは素早く席を立ち、アバッキオの背後に回り、その肩を軽く叩いた。
「さっさと食っちまえ。折角の料理が冷めるだろう」
そしてミスタの後を追って、消えてしまう。
五分後。
フーゴとナランチャが二人揃って妙な顔でこちらを見ていることに気づいた。
何が気になるのだろうと、少し身体を動かした時。
揺れる髪の毛の感覚が、いつもと違っていた。
慌てて手を伸ばすと、いつの間にかアバッキオの髪は、高い位置で一本に結わえられている。
このポニーテールに使われているのは、さっきポケットに入れたはずの紐。
「……ブチャラティの奴……」
ミスタよりも、あいつの方が子供なんじゃないのか。
そんなことを思いながら、アバッキオは紐を解き、妙な癖のついた髪の毛を撫でた。
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