爪噛み

 完全に停止した列車から離れた後、しばらく頭から離れなかった映像がある。
 目の前でバラバラになって流れて行った、見知らぬ男の死体。
 これまでの人生で、そんな猟奇的な物をお目に掛かる機会などなく、そう振り返るれば振り返るほど、信じがたい世界に今身を置いているのだと奮えた。
 そもそも、今座っているこの椅子。
 ここはどこだ。
 ここは亀の中。
 亀の中に部屋がある。そこからして、理解を超えている。
 トリッシュはまた溜息をつく。
 これは何度目の溜息なのか。もう数えるのも嫌になる。
 最初の溜息は、六人もの男の集団の中に放り込まれた時。傍らにいた老人の陰で、誰にも気づかれぬようこっそりと。
 そして今に至るまで、何かにつけ溜息ばかりが出る。
 気が利かない男が妙に目に付いたり、ただ緊張ばかりする退屈な時間を過ごしたり。もしここに故郷の女友達がいたら、多分彼女相手に六十時間は愚痴を零せる自信がある。
 いや、愚痴ならまだいい。
 今はただ、とんでもことに巻き込まれてしまった、という思いばかりが渦巻く。
 厳密には『巻き込まれた』のとは少し違うが、これまで自分の出生について、これほど深刻で厄介な問題だとは知らずにいた以上、突然起こった事態はまさに『巻き込まれた』心境だ。
 また、頭を過ぎる。
 川を流れて行く、今日初めて会った男の身体。
 さっきまで生きていたのに。
 乱暴な言葉を話し、血走った目で、トリッシュの三倍はある太い腕を動かしていたのに。
 あの冷たいのか紳士なのかわからないブチャラティは、生きている人間を顔色一つ変えずに屠ってみせた。
 ギャングなのだということを、改めて思い知らされる。
 怖い人達だ、と。
「トリッシュ……?」
 そんなことばかり考えていたせだろうか。
 声を掛けられても、全く気付けなかった。


 トリッシュが慌てて顔を上げたのは、誰かがやんわりと自分の右手首を掴んだから。
「なっ……いきなり何!?」
 さすがにこれは無礼だと思う。
 トリッシュは反射的にその手を振り払った。
「驚かせてすまない」
 違うでしょ。驚かせた? レディの手をいきなり握ることが失礼だからに決まっているのに。
 何か解釈に差異がある。
 いい加減慣れてもいいと思うが、このブチャラティという青年の行動は、どうもよくわからない。
「驚いたわけじゃないわ……」
 わからないけれど、さすがに振り払うのは悪かったか。相手も気を悪くしたかもしれない。
 だから、言い訳は小声に留まる。
 きっとブチャラティには届かなかったに違いない。
 こういう時はこちらが「ごめんなさい」と言った方が良い。良いに決まっている。
 なのにその簡単な一言が、逃したタイミングのせいでもう言えない。
 と。
「え?」
 なぜかまた、右手を掴まれる。
 それほど力は込められていないらしく、握られた手首に感じるのは相手の体温だけ。
 けれどしっかりと掴まれたその手は、トリッシュの動きを見事に封じている。
 こんなことさえも、「やっぱりギャングだから?」と何でも結びつけて考えてしまう。
 それよりも。
 どうして彼は、何度も何度も人の手首を握るのか。
「トリッシュ……形が悪くなる」
「形?」
 鸚鵡返しに唱えたトリッシュに、ブチャラティはそっと右手の指先へと視線を送る。瞬きと瞬きの間の、一瞬だけ。それでも、何処を見たのかトリッシュには伝わるような僅かな間。
 見られているのは、自分の親指の爪。
「あ……」
 無意識に、考え事をしながら噛み続けていたらしい。
 歯形がつき、一部折れ掛けている。
「これは、だから……」
 いい歳をして、噛み癖のある子供だと思われたくない。
 言い訳をしたい。
 でもその前に、いつまでもしっかりと握られたままの手もなんとかしたい。
 年上の男性に手を握られて、いつまでも無言でいる。緊張する。
 言い淀むトリッシュに、ブチャラティは優しく微笑んでみせた。
「短時間に色々なことがあり過ぎた。男所帯で気も利かない。……後でジョルノを呼んで来る。歳も近いから、暇潰しの話し相手くらいにはなる」
 思わずその笑顔をまじまじと見つめてしまった。
 あまりにも突飛なことばかりでそこまで気が回らなかった。意識していなかった以上に、自分はお姫様待遇をされていたのかもしれない。
 そんなことすら気づかない。爪を囓り続けても気づかない。
 どこまで間抜けなのだろう、自分は。
「……ごめんなさい」
 先程詰まったその言葉は、今度はすんなり口を滑り出た。
「気にすることはない。もうしばらくここにいてもらわなければならないが……外の空気も吸いたいだろうが、我慢してほしい」
「いいの! ……あの、話し相手なんだけど……」
 ブチャラティは、無愛想なジョルノを呼ぶと言ったが、なんとなく、同世代とかそういう問題で片づけられない溝を感じるので、話をして盛り上がるとは思えない。
 どちらかといえば。
「あなたじゃ、だめかしら……?」
 比較的、ましだと思う。
 ブチャラティは一瞬首を傾げた。
 ジョルノの方が適任だと信じて疑わない顔だ。
 だがすぐに笑みを浮かべて、頷いてくれた。
「ありがとう。……ついでに、いい加減手を離してくれない?」
 手を握り合うほど親しくはないのだから。

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