温度

 グラスに残った最後の一滴を飲み干した。反射的にボトルへ手を伸ばしたが、こちらも同様に、グラスに注がれるべき雫は残されていなかった。
 部屋にあったアルコールは今ので終わりだ。
 面倒がって補充していなかったことを悔やんでも、今は何の役にも立たない。
 どこかこの近くで酒が飲める場所。それを考える。
 雰囲気の良い店はどこも遠い。この近辺はまずい酒ばかり出す。
 酒があって、感じの良い所。
 あった、一カ所だけ。
 思いついた時には既に身体は動いていた。
 乱暴に扉を閉め、外に出た。
 時計は見なかった。今が何時かはわからない。
 飲み始める前に見た時には、確か十時頃だった。あれから何時間か経っている。日付はもうとっくに変わっているのだろう。
 それでもまだ朝には程遠い。
 飲み足りない。


 夜半、雨音が聞こえ始めた。
 夜に降る雨は苦手だ。
 雨の夜になると、つまらないことを思い出す。
 何も考えてはいけない。
 もう考えてはいけない。
 こういう酒の飲み方はしたくなかったが、他の方法など思いつかない。
 案の定、飲んでも飲んでも、意識はそのことに向いたままだったが。
 何時間を過ごしただろう。
 空の瓶を並べたテーブルに突っ伏して、とうとう独り言まで出る始末。
 考えるな。
 考えるな。
 余計なことは何も考えるな。
 それでも、耳の奥では、遠い日の銃声が鳴り響く。


 まだ足りない。
 こんなに飲んでも、ちっとも酔っていない。
 雨はまだ降り続いている。
 濡れた髪が頬に張り付いて気持ち悪い。
 水を吸った服が重い。
 靴の中にまで染み込んで来た。
 まだ足りていない。
 酒が足りない。
 雨が止むまで、朝になるまで、飲み続けなければ、この悪夢は消えない。


 濡れた敷石が、街灯の光を受けていた。
 靴底が滑る。
 いつ足を取られたのか、気づいた時には道の真ん中に座り込んでいた。
 早く立ち上がらなければ、腰の部分にまで水が染み込む。
 そうは思っても、手足の力は抜け切っていた。
 空を見上げた。
 雲が近い。
 大粒の雫が目に注ぐ。
 少し、痛い。
 立とう。
 雨のシャワーを楽しみたくて外に出たわけではないのだから。
 酒だ。
 もっと飲まなければならない。
 もっと。もっとだ。


 そこに辿り着いて、片手を伸ばした時、掌が汚れていることに気づいた。
 転んだ時に手をついたのか、立ち上がる時に掌に力を込めたのか、どちらだったかは覚えていない。
 服に擦り付けて落とす。
 だが、服も同じだったので、手の汚れは変わらない。
 仕方がない。このままでいい。
 今が深夜だということも忘れ、乱暴に扉を叩く。
 住人はまだ起きていたらしく、すぐに扉は開かれた。


「酒、あるか?」
 部屋の住人は驚いた風でもなく、落ち着いた声で「何故?」と問いかけた。
 決まっている。
 飲んでも飲んでも足りないからだ。
 もうどんなことが起こっても動かないはずの、この冷え切った心が、こんな夜だけ熱くなる。そんな錯覚がまとわりつくからだ。
 我ながら臭い台詞だと思った。
 笑われるかと思った。
 しかし、相手は全く動じずに、小さく応えた。
 小さすぎて聞き逃すかと思った。
「冷え切っているのはおまえの身体だ、こんな雨の中を歩いて来やがって」
 そういうことじゃない。
 誤魔化すな。
 睨みつけると、初めて相手は笑った。
「雨が上がるまでなら付き合ってやる。入れ」
 グラッツェ。
 入る瞬間、内部の明かりで自分の衣服がよく見えるようになった。
 転んだのは一度きりではなかったのかもしれない。
 こんな汚いなりでは、入れて貰えないのではないか。
 入るに入れずにいると、部屋の住人に腕を掴まれた。
「中に雨が入る。早く閉めろ」
 掴まれた腕から体温が伝わって来るようだった。
 本当だ。
 この身体は、冷え切っている。
 もう一度酒を入れれば、少しは暖まるだろうか。

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