雷雨

 慣れぬ町の安宿の、ぬるいシャワーに舌打ちし、髪から滴る雫さえも厭わしく感じ始めた時、部屋の前で誰かが控えめにノックする。
 その叩き方の癖は知っていた。
「ペッシか? どうした?」
 鍵を開けてやると、でかい図体に似合わぬ涙目が、枕を抱えて震えていた。
「兄貴ぃ、部屋の隅っこでいいんで、今晩ここにいちゃだめですかい……?」
「………」
 まさか。まさかとは思った。
 プロシュートはちらりと背後の窓に視線を移した。
 いつからか降り出した雨は、シャワーを浴びている間に激しさを増し、雷鳴も微かに聞こえる程になっていた。
「オメー、雷が怖えのか?」
 殴られるとでも思ったか、脅える弟分は身を竦ませながら頷く。
「何身構えてんだ? オレが、そんなことで殴るわけねーだろ?」
「でっでも、兄貴……」
「苦手なもんは仕方ねえ。だがなペッシ、仕事の時には、すぐ横に雷が落ちてもビビるんじゃねえぞ。それだけは忘れんな。今は勘弁してやるから入れ」
 そう言うと、部屋の隅のソファを指差した。
 が、改めて見て気づく。こんな粗末な物に転がって、十分に眠れるわけがない。どう考えてもペッシには狭すぎる。
 となると残るは。
 このベッドもけして大きくはない。大きくはないが、男二人、無理をすれば入れないこともない。
 振り返ると、ペッシは既に指定された硬い寝床になんとか収まろうと四苦八苦しているところだった。
「おいペッシ、そこじゃ無理だ。こっちに来な。その代わり、寝惚けてオレを蹴飛ばすんじゃねえぞ」
「いいんですかい、兄貴!?」
 無邪気に喜ぶ姿が、妙に微笑ましい。こんな図体なのに、子供のような奴だ。


 明かりを消した後、プロシュートは試しに聞いてみる。
「オメー、もし一緒に泊まってたのがリゾットだったら、それでも奴の部屋に押しかけるのか?」
「えっ……どうしようかな……」
 適当にリゾットを指名してしまったものの、実際そうなった場合、あの男がどういう反応を示すのか、それはプロシュートにもわからない。
 怒って追い返す、ということはなさそうだ。が、自分のように絆されて入れてしまう、ということも考えにくい。
 ペッシもそれを考えているのだろう。しばらく唸り続けていたが、やがてぼそりと答えた。
「入れてもらえないだろうけど、一応、行ってみる、かな……?」
 もしそんな機会がこの先巡って来ることがあれば、是非実践してもらいたいところだ。
 まあ、この半人前がリゾットと対等に仕事ができるようになるには、後三年は必要かもしれないが。そしてその頃には、もう雷の一つや二つ、こいつも克服しているかもしれない。
「……それまで生きてりゃいいが」
 独り言は、ペッシには聞こえなかったようだ。雷鳴が聞こえないように、しっかりと耳を塞いでいる。
 それまで生きていれば……。
 誰が?
 こいつが? オレが? リゾットが?
 全員だ。
 少なくとも自分は、このマンモーニを一人前にするまでは死ぬわけにはいかない。絶対に遣り残してはいけない最低限の仕事だろう。
 だが、この情けない姿が見られなくなるのも、何か寂しい気がする。
 来年は人類が滅亡すると予言されている年だが、血に塗れ続けるこの人生では、日々を生き抜くことで精一杯。来年を迎えられるかどうかも怪しい。さっき、後三年、と言ったものの、本当に三年後が来るのかどうか。
「オレが死ぬ前に、マンモーニを返上してくれよ……?」
 震える弟分は、そんな優しい言葉にも気づかない。
 あまりにも可哀想になったので、耳を塞ぐ手を無理に引き剥がして話しかける。
「ペッシ。光ってから音が聞こえるまでの時間を計ってみな。長くなればなるほど、雷は遠ざかってるんだ。この近くに落ちたりしねえって、すぐにわかるぜ」
 急に腕を捕まれたペッシは、悲鳴を上げるのを堪え、耳を澄ました。
 今、窓の外が一瞬明るくなった。
 一、二、三……。
 雷鳴。
「近いっす! 近いっすよ、兄貴!」
「いくらここがボロ屋でも、感電はしねえ。寝ろ」
 余計に怖がらせるようなことを言ってしまったようだ。
 気まずいので、プロシュートはペッシに背中を向けた。


 眠りに落ちる瞬間、瞼の奥に見たこともない映像が浮かんだ。
 いつも情けないはずの弟分が、別人のように引き締まった顔をしていた。
 いつかこんな光景を、自分は見るのだろうか。
 しかし、その映像はすぐに消え、プロシュートの記憶に刻まれることすらなく、永久に失われる。

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