静寂
目の前に転がる死体をしばし眺めた後、ゆっくりと踵を返した。
足許で、小さな金属音。
今し方、自分で作ったばかりのカミソリの一枚を踏んでいた。
足を離し、その小さな刃を見た。瞬間、それは形を失い、粉末状になって風に散った。
裏通りの細い路地を選び、リゾットは黙々と歩き続けていた。
道ばたに転がる死体が見つかるまで、後十分もかからないだろう。一見、心臓発作か何かで行き倒れた男にしか見えないので、それほど騒がれることもない。その死因が判明し、オカルト的な戦慄を味わう頃には、犯人はもう遠くへ逃げ去っている。
急ぐ必要はない。
現場近くでは姿を見せていなかった。仮に誰か物陰で一部始終を見ていたとしても、男が一人で勝手に苦しみ出して死んだことしかわからない。
リゾットと死体を繋ぐ糸は、どこにもない。
深夜の裏通りは、人の気配が殆どない。
頃合いを見計らって、リゾットはメタリカを解除した。
ホテルへ戻るには、この道で良かったはずだ。
イタリア国内ならば、どんな小さな町でも地図は頭の中に入っている。が、異国のそれは、出国前に市販の地図にざっと目を通しただけだったので、概要程度しか覚えていない。
そういった点からもわかるように、今回の仕事は急過ぎた。
突如下された指令。
あくまでも、リゾットを指名し、他のメンバーの随行を一人として認めなかった。
逃げるとでも思われたのか。
部下を二人殺されたことで、怖じ気づいて逃げるとでも?
となると、残して来た六人の部下は人質というわけか。守ってやりたいと思えるような、可愛げのある部下でもないのだが、もう随分長い時を共に過ごしてしまった。今更見捨てたりなどしない。
それに、尻尾を巻いて逃げるようなリゾットではない。
いずれは何らかの決着をつける日も来るだろう。
薄暗いロビーを抜け、リゾットは室内に入った。
用意されていたのは、ごく普通のシングル。ビジネスマンが通常宿泊するタイプの部屋だ。
リゾットの年齢と合わせ、目立たぬようにとの配慮だったのかもしれない。
出発前になってから、ビジネススーツ着用、と指定された時には何のことかと思ったが。
生憎そんな物は持っていなかった。部下にもそんな服を持っている者はいなかったが、仮にいたとしてもサイズが合わなかっただろう。
仕方なくプロシュートに買いに行かせた。ここで人選を誤ると、ビジネスマンの常識を知らない奴が奇天烈な服を買って来る恐れがある。リゾットが自分で行っても良かったのだが、その身から滲み出す独特の雰囲気は、とても堅気の職業に就いているとは思えない。却って目立ちすぎる。
ファッションが絡む場合、信用できるセンスの持ち主は一人しかいなかったのだが、彼はリゾットの期待を裏切らず、「二十代後半でバリバリやってる奴ってのは、こうだろ」と一式揃えて来た。
ベッドの上に置かれたスーツケースの中には、ここに入るまで着ていた、プロシュートの見立てのよる衣装が一着入っている。後は偽の身分証明書。食品会社の営業マンで二十六歳。アメリカとイタリアを月に一度は往復している男。自分が本当にそんな人間に見えるかどうかは怪しいが。
ケースを床に下ろし、ベッドに身体を横たえる。
全て予定通り。
朝、シャワーの後、ルームサービスで朝食。着替えてチェックアウト。空港へ直行。
イタリアに戻った後、この衣装とパスポートを始末すれば、それで終わりだ。
*
黒猫が一匹。
オレの右足の横にぴったりと張り付いて身動き一つしない。
人に馴れているようだが、懐かない。
猫の視線は、正面に。何かに注がれている。
数メートル離れた先には、猫が八匹。毛並みも様々だ。
「あれはおまえの仲間か?」
黒猫は動かない。
八匹いるが、じゃれ合っているのはそのうちの六匹。少し離れた所にいる二匹は寄り添って互いの毛繕いをしている。
どこかで似たような光景を見た気がする。
そう、毎日のように、見ていたような気がする。
そのうち、離れていた二匹は仲良くどこかへ走り去った。オレの目からは見えない、闇の中へ溶け込んで行った。
「………?」
しばらく間があった。
今度は茶色の奴が追いかけるように闇へ消えた。
すぐにもう一匹、続く。
「……何処へ行った?」
一番毛並みの良かった猫は、貧相な子猫を連れて去った。
しなやかな動きを見せ、更に一匹。
間髪置かず、最後の一匹も毛を逆立てたまま去った。
その光景を、オレの足許の黒猫は黙って見つめている。
「おまえは? 行かないのか?」
消えて行った八匹の猫。
「あれは……おまえの部下なんだろう? おまえはどうするんだ?」
闇を見据えていた猫はやがて、一歩踏み出した。
*
目を覚ますと、そこはホテルのベッドの上だった。
反射的に時計に目を遣る。
まだ二時。
あれから一時間も経っていない。
随分感傷的な夢を見てしまった。
時計の秒針の音だけしか聞こえない部屋。
リゾットは一つ息を吐き、再び目を閉じた。
最後まで残るのは、きっと自分なのだろうと。彼等をまとめる役目を負った自分が、最後まで残らなければならないのだろうと、ぼんやりそんなことを思った。
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