可愛いあの子にくちづけを。

 近所に、こういった界隈には不釣り合いな一家が越して来たのは一年前。
 理想のお父さんといった感じのご主人と、憧れのお母さん像そのままの夫人。人見知りもしない明るい娘と、やんちゃな息子。
 この四人が家に入って行く姿を見る度、ペッシは失って久しい自らの家族のことを思い出した。
 もっと貧しくて、もっと陰気だったけれど、家族の絆は同等だと思う。
 窓から路地を見下ろしている時、時折夫人がこちらを見上げた。軽く会釈をし、五分も経たないうちに自家製の菓子を分けるためにここまで上がって来た。
「良かったらどうぞ。お兄さんがいらした時も困らないでしょう?」
「あ……昨日の聞こえてたんすか? 恥ずかしいなぁ……」
「仲の良いご兄弟ね。男の子なんだから、あれくらい元気な方がいいわよ」
 プロシュートがたまに尋ねて来た時、酒のつまみ一つないことでいつも怒られる。その怒鳴り声が近所中に響いているのはペッシも気づいていたが、こういう平和な誤解をされているとまでは思わなかった。
 いえ、あの人は尊敬してる兄貴分で、実の兄じゃないんです。
 そこまで馬鹿正直に答えてしまうと、どういう関係なのか深く突っ込まれた時に返答に窮する。以前にも何度かそれで大失敗をしているので、ペッシは『仲の良い兄弟』と言われてもただ頭を掻いて笑うだけ。
 ボーチ・ボーイではない、普通の釣り竿の手入れをしている姿を見掛けたらしいご主人は、休みの日に道で会った時、自分も釣りが趣味なんだと、戦歴を披露してくれた。
「良かったら、次は君も一緒にどうだい?」
「お願いします!」
 けれど、まだ一度も、彼と釣りに行っていない。
 やんちゃ坊主な息子は今五歳。時々いたずらをしては付近の年寄りを困らせている。溜め息交じりにその後始末をしている老人に声を掛けたことがある。
「いつも大変っすね」
「まったくだ。だが……子供はああでなくちゃな」
 本気で怒っていないのだとわかった。ペッシは自分のことのようにほっとした。
 上の娘は十歳。
 早く大人になりたくて仕方がないこの子は、時々ペッシすらもからかう。
「ねえ、お兄ちゃん。恋人は?」
「えっ! ……いないよ、そんなの」
「駄目ねえ。もっと男らしくして! ほら、いつも遊びに来るあのお兄さんみたいに、いい服着たりとか」
「オレは駄目だよ、兄貴みたく格好良くないから」
「そんなことないわ。ちゃんとした格好すれば、お兄ちゃんだって一人くらい恋人ができるわよ!」
 こんな子供にまで説教されるほど、自分は情けないのか。最初の頃はそう思って落ち込んだが、慣れて来ると、この子の生意気な言葉を聞くことそのものが嬉しくてたまらない。


 今朝も、いつもと同じだった。
 寝坊気味のペッシが窓から顔を出すと、丁度あの女の子が外に出て来た。
「お兄ちゃん、おはよう!」
「おはよう」
 手招きされ、ペッシはまだ顔も洗っていなかったが外に出た。
「どうしたの?」
「あたし、今日誕生日なの!」
「へえ! 十一歳? おめでとう」
 何か期待しているらしい少女に、ペッシはしまったという感情をはっきりと顔に出した。
 屈み込んで、少女と目線を合わせ、ペッシはその頭を撫でる。
「ごめんごめん。お兄ちゃん、プレゼント用意してなかった……学校から帰って来るまでに、何か考えておくからね」
 特別親しいわけではなかったが、こうやって毎日のように顔を合わせている以上、誕生日と教えられて無視するのは悪いような気がした。
「本当!? じゃあ楽しみにしてる!」
「さあ、気をつけて行っておいで」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん」
 少女は本当に嬉しそうな顔をしてペッシに抱きつき、その頬に軽くキスをした。
「お兄ちゃん大好き!」


 ペッシの給料では、毎日食べるのがやっと。
 それでも、あの子のためにと思うと、金を惜しむ気にはなれなかった。
 街を歩き回り、一生懸命女の子向けのプレゼントを探した。
 ペッシの一ヶ月分の食費全額を使わなければ買えないような高価なフランス人形が入った箱。それを大事に抱えて帰って来た時、近所が騒がしかった。
「何かあったんすか?」
 いつもこの辺りを散策している老人に聞いてみた。
「あんたの家の向かいの、あそこのお嬢ちゃんが事故で亡くなったんだよ」


 今日で十一歳になる少女が、今日死んだ。
 ペッシは窓から、そっと向かいの家の様子を窺った。
 閉ざされた家。人の出入りは無い。
 さっき、ご主人が会社から走って帰って来た。手には、ケーキの箱があった。
 それだけだ。


 向かいの家が見える場所にはいたくない。
 ペッシは人形の入った箱を持って外に出た。
 ただふらふらと歩き続け、気づけばもう夜だった。
 そういえば腹が減った。小さな店の前で気づく。
 こんな時でも、物は食べられるんだ。
 適当に食事を注文し、ペッシはテーブルにプレゼントの箱を置いた。
 それを眺めている間に、料理が運ばれて来る。
 一口運ぶ。
 美味しい。
 美味いと思ったのと同時に、急に泣けてきた。
 別に特別親しかったわけではない。挨拶を交わすとか、作りすぎた料理を分けてもらうとか、立ち話をするとか、それだけで。
 今日はただ、誕生日だと言うからプレゼントを買っただけで、知らなければそのまま終わっていた行事で。
 食事はまだ途中。
 しかし、喉を通らない。
 どうしていいかわからなくなって、ペッシはポケットを探る。
 携帯のメモリー一番。
『どうした、ペッシ?』
 プロシュートの声を聞くと、もう何から話していいのかもわからなくなる。
「兄貴ぃ……兄貴ぃ……」
 こんな図体の男が、一人で電話しながら泣いている。店中の注目を集めていることには気づいていた。しかし、涙は止まらない。
『待ってろ。十分で行く』
 なぜか近くにいたプロシュートが、すぐにここに駆けつけてくれる。
 そう思うと、少し楽になった。


 プロシュートを待つ間、ペッシは今朝のことを思い出す。
 頬に小さな口が触れた。そして、お兄ちゃん大好き、と。
 こんなに悲しくなるのだったら、あの時「オレもだよ」とお返しをしておけば良かった。本当の妹のように、あの子は可愛かったんだから。

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