キスと涙と夏の嘘

 いっそ結婚できたら楽なのに。
 彼女の顔を見るといつもそう思う。
 そんな葛藤を、リゾットは見抜いているらしく、一度二人きりになった時に釘を刺された。
「おまえがどんな仕事をしている人間なのか忘れて、その場の勢いで軽率な真似だけはするな」
 何のことだ、と惚けたが、自分の部下を常に気遣っているあの男なら、それぞれの身の回りについての情報はどこかからしっかり入手しているはずで、そんな誤魔化しは無意味だと思った。
 堅気の商売をしているのなら、堂々と結婚できるのに。
 いや、百歩譲って、普通のギャングだったなら。
 こんな汚れ仕事をしている分際で、人並みの幸せなんか手に入れようと思う方が間違っている。
 彼女は、ホルマジオが何をやっている人間なのか知らない。
 頭の回転は悪くないのだが、少し世間知らずなのか、揉まれていないと言うのか、ホルマジオが暗殺者だとは全く気づいていない。
 もう三年も一緒にいるが、疑いもしないようだった。
 出会った時の成り行きで、寺院関係の修復に携わる会社で働いている、と言ってしまった。現場で作業員を監督するのが主な仕事、とも。
 まさかこんな長い付き合いになるとは思わなかったので、あの場は適当にそう言ったのだが、今にして思えば、苦しい嘘をついてしまった。
 時々、仕事について「どう? 大変じゃない?」と言われるたびに、実は異動になったんだ、と次々と部署を移し、今ではホルマジオは経理でデスクワークの日々ということになっている。
 もうこの嘘も限界だ。
 次に何か聞かれたら、今度は「実は会社を辞めたんだ」と言うしかないだろう。
 さすがに「それでギャングになろうと思う」とは言えないが。


 今夜は久しぶりに彼女の方から連絡があった。
 最後に会ったのは三ヶ月前。その後、二、三回電話はあった。ホルマジオは仕事で留守にしていた。仕事に入ると、一日や二日空けることなど珍しくない。かけ直すにしても、五日も出張に行っていた、という言い訳はさすがに苦しい。
 だが、先々月から急に、彼女からの連絡が途絶えた。
 掛かって来ない電話を待つ日々。
 いざ自分からかけようと決心すると、そんな時を見計らっているかのようにリゾットからの呼び出しがかかる。
 とうとう三ヶ月も経ってしまった。
 怒っているだろう。
 どう言えば、彼女は微笑んでくれるだろうか。
 あの笑顔だけが、ホルマジオには救いなのに。こんな稼業でも、優しく微笑んでくれる女性がいるだけで、それだけでホルマジオは自分の身を不遇だと思わずにいられる。
 いつものレストランで、彼女は待っていた。
 彼女に会う時だけ、堅気に見えるようにと、地味でセンスの欠片もない服を着る。
 そんなホルマジオを見ると、彼女はいつも笑いながら言うのだ。
「あなたって本当に駄目ね。いい? このシャツには、この前着てたあのジャケットが合うのよ。これじゃああんまりだわ」
 ああ知っているとも。こんな格好、本当はしたくないんだ。でもこうやっていれば、君は俺を愛してくれるだろう?
 口には出さず、ホルマジオは頭を掻いて苦笑する振りをする。
 だから今日も、いつも通り、ちょっと外を歩くのも恥ずかしいようなコーディネイトで来た。
 目が合ったので、軽く手を挙げて合図する。
 彼女はホルマジオをじっと見つめ、早くテーブルに着くようにと手招きした。


「ごめんな、俺、電話ってなんか苦手で……掛け直すのって、駄目なんだよ」
 これも嘘。
 野暮ったい男の振り。
 全て嘘。
 ただ一つ、真実があるとするならそれは。
 真剣に彼女のことを想っている。それだけ。
 それだけは、本当だ。
 こう言えば彼女は吹き出す。「駄目な人ね」で済ませてくれる。
 ところが。
「……ええ、そうね。あなたってそういう人よね」
「え?」
「いつもいつも、嘘ばっかり。私、調べたの。そういう仕事をしてる会社、全部。でもあなた、いなかったわ」
 まさかそんな面倒なことをやるとは思わなかった。だから今まで、すぐ分かるような嘘でも安心してついていられた。
「ごっ……ごめんごめん! 実は、三ヶ月前に、会社辞めたんだ!」
「もう嘘はやめて。私が調べたのは、三年前あなたに会ってすぐなのよ。でも、あなたには何か事情があると思って聞かなかった。いつか話してくれると思ってたの」
「………」
 まずいな、これは。
 こんな普通の良い所のお嬢さんが、実は自分が三年もギャングの女だったなんて知ったら、ショックで倒れるかもしれないな。どうする?
「私、二週間前、結婚式だったの」
「へえ……友達でも誰か結婚した?」
 やばいぞ。
 自分も結婚したいって話になるんじゃないのか、これは。
「私が結婚したの」
「………え?」
 周囲の騒音が、全て消える。そんな一瞬。
「……どういうことだ?」
「説明する必要なんかないわ。あなただって、私に何も話してくれないでしょう?」
「それとこれとは……」
「同じよ! 同じなのよ。じゃああなた、本当は何の仕事をしてるのか、今ここで私に言える?」
 こんなに興奮している彼女を見るのは初めてだ。
 微かに目が赤い。
 知らなかった。
 こんな風に、感情を露わにすることもできる女だったんだな、君は。
「……ごめん。それだけは言えない」
「じゃあ話はこれで終わりね。さようなら」
 言い終わる前に、彼女は立ち上がっていた。
 振り返りもせずに出て行く。
 そんな彼女の後ろ姿を見送って、ホルマジオは溜め息をついた。
 嘘ばっかりでも、本気で好きだったんだ。


 次の瞬間、自分でも馬鹿なことをしていると思った。
 店を駆け出し、彼女の姿を追った。
 見間違えたり見失ったり、絶対にしないその姿。
 腕を掴み、強引に引き寄せた。
「あなたまだ……!」
 何か罵倒する気だったのかもしれない。
 けれどそうはさせない。
 ホルマジオはその細い身体を引き寄せ、強引に唇を重ねた。
「結婚して欲しかった。君と、結婚したかった。それだけは本当だ」
「騙さないで」
「パッショーネなんだ、俺は」
 その特殊な名称に、彼女は目を見開いた。
 良かった、この名前は知っていてくれた。説明する手間が省ける。
「だから……」
「最後まで、嘘しか言わない人なのね」
 掴んだ腕を振り払い、彼女は行ってしまう。
 その背中が雑踏に紛れる。
 もう声も届かなくなった頃、ホルマジオは呟いた。
「最後だけは本当だったってのによ……」
 こんな因果な商売、辞めれるものならとっくに辞めている。
 チームの誰かに愚痴でも聞いてもらいながら飲みたい。
 ホルマジオは携帯を取り出し、数件しか登録されていないメモリから、誰か適任者を探し始めた。

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