そのキスを残して、

「ねぇ、あんた名前は?」
 今夜初めて会った女は、そう尋ねた。
「いらねぇだろう? どうせ呼ばないんだからよ」
 吐き捨てるように、けれど笑みを浮かべたまま応じた。
 気分を害したようでもなく、女は「それもそうね」と呟いた。
 一人で飲んでいた時に、突然声を掛けて来た女。そっちの商売かと思った。
 話を聞いてみると、すれた素人に過ぎないとわかった。
 だから成り行きでここまで来てしまった。勿論、それまでの間、金銭の話題は一度も出なかった。
「ね、そのスーツ、どこのブランド?」
 女の癖に、そんなことも知らない。
 顎に手をかけ、「グッチだ」と囁いた。
「本当に? 冗談でしょう?」
 女は本気に取らず、笑った。
「さあ、どっちだろうな」
 ただの遊びだ。こんな夜の過ごし方も、女との会話も。ただの遊びだ。


 数十分後、微睡んでいた女は、無造作にこの頭に手を伸ばす。
「ねえ……変わった髪型ね。これ、解いてみてもいい?」
 後頭部で何カ所もまとめられた髪に触れる。
「だめだ」
「どうして?」
 至極真面目な表情で、女と向き合った。
 ああそうか、この女は、こういう顔をしていたのだった。真正面からまともに見るのは、これが初めてかもしれない。
 薄暗い店の中や、路地、わざと照明を点けなかったこの部屋。
 今し方、煙草に火をつけるために、手探りで明かりを求めた。そして漸く、女の顔を拝めた。
「また結び直すの、面倒だろ?」
「あたしがしてあげようか?」
「いらねぇ。こいつだけは自分でやらなきゃ落ち着かねぇんだよ」
「ガード堅いのね、あんた」
「そうか……?」
 頭の弱そうな女だから誘った。
 余計なことに気の回る女は御免だ。
 女は身を起こし、そっと頭を撫でて来る。
「友達も恋人もいないでしょ? あたし、そういう人を見分けて声掛けるの」
「オレもそんな男に見えたか?」
 ブロンドの長い髪をぐしゃぐしゃにかき回してやる。
 乱れた髪のまま、女は話を続ける。
「あんた、堅気じゃないでしょ? 何やってる人?」
 唐突に話題を変える女だ。だが、それも悪くない。
 こういう遊びには、こういう会話の方がいい。
「水商売。金持ち女に体売るのが本業さ」
「嘘ね。あんた、愛を売る商売は向いてないわ」
 勘がいいのか。冗談の区別はつかないくせに、嘘だけは見抜く。
「だから体を売ってるんだ」
 軽く唇を重ねるが、女は応じず、されるがままだ。
「まだ時間あるんだろ?」
「朝までだって構わないわよ」


「ね、本当は何やってる人なの?」
「人を殺して金貰ってる」
「嫌な人。絶対に本当のことは言わないのね」


 普段はあまり、こういった接触は好まない。
 女はいくらでも寄って来るが、気が向かなければ誘わない。そして気が向くことなど、滅多にない。
 そういう意味で、今夜のこの女は運がいい。
 だが、それだけだ。
 朝までどころか、後一時間もすれば別れ、そして二度と会わない。そういう女だ。
 友達も恋人もいない?
 そんな孤独な男に見えたのか?
 それはうちのリーダーだろう。あいつこそ、親しい人間なんか一人もいない、正真正銘の独りぼっちだ。
 あれに比べれば自分など、まだまだ人付き合いの良い方に入る。
 命を預け合った仲間もいる。
 目に入れても痛くない、可愛い弟分だっている。


 こんな夜は、こういう遊びがいい。


 もうすぐ、ソルベとジェラートが何かを掴むだろう。
 二人が何をやっているのか、直接知らされている仲間は一人もいないが、誰にだって想像はつく。
 二人が黙っているから聞かないだけだ。
 だが、あいつらの態度を見ていればわかる。状況は悪くない。いいところまで行っているはずだ。そしてそれが確信へと変わった時、二人は勝ち誇ったように報告するのだろう。
 それを待つだけだ。
 しかし、何か不安が過ぎる。
 けして手を出してはならない、危険な何かが迫っている。そう感じる。
 今のままでいれば、少なくともこれ以上悪化することのない現状が、より悪い方へ悪い方へと流れて行くような予感が。
 だからといって引き下がる必要はない。不安はただ感じるだけで、現実には何もまずいことなど起こっていないし、起こさせるつもりもない。
 しかしぬぐい去れぬ不安には。
 こういう遊びが効力を持つ。


「ねえ、名前、なんだっけ?」
 寝惚けているのか、女が虚ろな声を出す。
「さあな」
「あらそう。じゃあ勝手に呼ぶわ。何がいいかしら?」
 何か名前を考えているらしい女が、興ざめするような名を言い出す前に口を閉ざさせた。
 更に続けようとした矢先、脱ぎ捨ててあった上着から携帯電話の音が鳴り響く。
「ちっ……」
 電源を切り忘れていた。
 鳴っているものを無視するわけにもいかず、立ち上がり上着から取り出す。
 表示されている番号、名前。
 なんだ、可愛い弟分じゃないか。
「どうした、ペッシ?」
 鼻をすすり上げる音が聞こえる。
 小声で「兄貴ぃ……兄貴ぃ……」を繰り返すのみ。
「どうしたってんだ? ちゃんと話してみろ」
 何を聞いても、ただ「兄貴ぃ」しか返らない。
「今どこだ?」
 そこで漸く、まともな返事が返された。
 意外に近くにいたらしい。
 まさか後をつけていたわけではないだろうが、よくできた偶然だ。
「待ってろ。十分で行く」
 電話を切った後、呆然とする女を振り返る。
「可愛い奴が泣いてるんで、今日はここまでだ」
 女は慣れた様子で起き上がる。
「次なんてないわよ、あたしには」
「初めて気が合ったな、オレもだ」
 最後にもう一度口吻を交わす。
 金を払うなど、女に対し失礼かと思ったが、つい癖で幾らかテーブルに置いてしまった。
 女は何も言わない。
 何か言いたげではあったのだが。
 構わず手早く身繕いを済ませ、部屋を飛び出す。
 時計を確認する。
 まだ五分前。
 六、七分あれば、ペッシの待つ店へ着けるだろう。
 不意に。
 こういう遊びは、これを最後にしたい。そんな気持ちになった。

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