夏の魔法

 念願の新車を購入した。
 本当は先輩が安く部品だけ譲ってくれるはずだったが、全てのパーツが揃わなかったので、それは断念した。
 もう製造していない部品もあって、どうしてもそれが無ければ、思い描いた通りのマシンに仕上がらない。
 第一希望が叶わないと解った段階で、噴上の心は全く別の第二希望にシフトしていた。
 雑誌で写真を見てからずっと惹かれていたそれは、けして安くはなかったが、年齢を誤魔化して続けたアルバイトのお陰でどうにかなった。
 それが届いた今日、噴上はしばらくそれを撫で回した。
 あまり触ると指紋がつく。でも黙ってただ眺めているだけなんて勿体ない。
「いいよなぁ、この手触り……」
 また立ち上がり、三歩下がって見つめる。
「写真と同じだ……」
 そしてまた近付いて屈み、そっと指を滑らせる。
 どうする?
 もう少しこうやっていてもいいけれど、でももう我慢できない。
 噴上はずっと握り締めていたキーを差し込んだ。


 風が心地良い。
 音も最高だ。
 途中、すれ違ったトラックが「うるせー!」と怒鳴っていた。
 この音の良さがわからないなんて、気の毒なおっさんだ。
 噴上は追い越した後、身体を傾けて振り返り、運転手に向かって中指を立てた。
 このままどこまで走って行きたい。
 そんなことを思った。
 きっと後で仲間に会ったら、皆が「オレも乗りたい」と言うに決まっている。
 こいつを独占できるのは今のうちだ。
 折角手に入れたこいつを、まず自分が十分堪能しなくては、マシンにも悪いと思う。
 そして噴上はどこまでも走り続けた。


 道なんかわかるはずもない。
 適当に流していたら、知らない山道に出た。
 普段は杜王町からそれほど離れないので、ただただ真っ直ぐ走り続けてしまった噴上には、ここがどの辺りなのか見当もつかない。
 多分、とっくに県外だと思うが。
 帰りは来た道をそのまま戻ればいいだけなので、迷っても気にはしない。
 適当に眺めの良いところで止まり、噴上は道路に座り込む。
 少し喉が渇いたような気もしたが、近くに自販機はない。来る途中にあったかどうかも覚えていない。ただこれに乗れたことだけが嬉しくて、そんなところにまで目が行かなかったので。
「アケミでも誘えば良かったな……」
 あの三人の取り巻きは、いつも平等に扱わないと機嫌を損ねる。
 どうも三人の間で協定が結ばれているらしく、お互いに抜け駆けはしないと約束されているようだ。
 噴上には仲良く振る舞っている所しか見せないので、裏でどんな火花が散っているのかはわからないが、噴上にも大凡の空気は読める。
 自分が贔屓をすると、あの三人の関係に支障を来す。
 そう思うと迂闊なことはできないのだが、たまたま今日はアケミだけが空いていたはずだったことを今思い出す。
 残りの二人は、また別の日に一人ずつ乗せてやればいい。
 でも。
 やはり一人の方が良い。
 きっとあいつらでは、これの良さは半分もわかってもらえないだろう。
 あの三人にとってバイクは、見た目が格好良くて、少しスピードが速ければいいだけのことで、何でも同じなのだから。
 噴上がどれほどこれを欲しがっていたかなんて、絶対に伝わらない。
「なあ……?」
 またそのボディに触れ、噴上は頬摺りする。
 こっそり深夜のバイトを続けていて本当に良かった。
 あまり人に見られたくない、軟派な仕事だったので、仲間には言えないが。
 この夏は、これに乗って、どこまでもどこまでも行きたい。
 もうじき夏休みだから、本当なら日本中走り回りたいくらいなのだが、さすがにそれは駄目だと言い聞かせる。
 荷物を積んで、いかにもという格好でそんなことをするのは、自分の流儀ではないので。
 第一、多分途中で飽きる。
 しばらく噴上はそこに寝そべり、空を見上げた。
 陽射しが眩しい。
 細めた目は、数分後には浅い眠りへと落ちて行く。


 夢の中で、噴上は本当に何処までも走り続けていた。
 気が済むまで、ずっとずっとどこまでも。
 自分以外誰もいない世界で、ただこのバイクに跨っていられる幸福感。
 けれどそれはすぐに、蝉の声で破られた。
「寝ちまった……」
 時計は午後三時。
 今から杜王町に戻っても、きっとすぐに集会に行く時間になる。
「学校に顔出そうと思ったんだけどな……」
 授業を受けたいとか、出席日数が気になるとか、そういうことは最初から頭にない。
 ただ、たまにしか会わないクラスメートに、愛車自慢をしたかっただけだ。
 自分の無茶な走りでは、今は新品のこれも、すぐにあちこちが傷み出すだろう。
 そんなことを考えながら、また触れる。
 半端な時間になった。どうしようか。
 いっそ、直接集会に行くことにして、もう少しここで休んでいようか。
 自分と、このバイクしか居ないこの空間がとても貴重に思えた。
「これからよろしくな」
 返事の無い機械に向かってそう呟いた。
 穏やかな時間が流れる。
 日が落ちれば、こいつにはもっといろいろと無理をしてもらわなければならない。だから今だけは、少しくらい噴上と一緒に休ませてやろう、と。
 そしてまた目を閉じる。
 魔法に掛かったような、幸福な夢に戻るために。

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