砂浜の足跡

 陽射しが眩しくて、目を細めた。
 一度手を休めることにし、露伴は周囲を見回した。
 元気な高校生達はどうしているだろうか、と。
 露伴は気晴らしに夏の名残の海を見たかっただけなので、着く早々スケッチブック片手に浜辺に腰を下ろしたが、海水浴目的で車に便乗して来た三人の高校生は、水着姿で海に飛び込んで行ってしまい、既に三時間近く姿を見ていない。
 いくらなんでも、三時間泳ぎ続けているとは露伴も思わないので、どこか近くにいるのではないかと探してみる。
 もう昼だ。
 昼食はどうするのか、露伴にはどうでもいいことだったが、一人で勝手に食べている所を見つかった場合、ぐずぐず文句を並べられるだろう。
 勿論、誘いはするが、奢りはしない。
 財布を持たずに来るほど馬鹿ではないと思いたい。


 一人ぼんやり、波打ち際で膝を抱えて座り込む康一を見つけたのは、五分後だった。
「そんな格好で座っていると、妙な日焼け跡ができるんじゃないか?」
「だって先生、ビーチパラソルとか持って来てないでしょう?」
 海水浴に来たわけではないのだから、そんな準備をしているはずもない。
 必要なら、自分達で用意すれば良いんだ。
「そこらで売っているんじゃないのかね?」
「……そんな高い物、簡単に買えません」
 高校生の懐事情というものが、露伴にはよくわからない。
 なぜなら、既にその時分には、露伴の年収は七桁を越えていたので。お小遣い制の一般人とは訳が違う。
「仗助と億泰はどこに行ったんだい?」
 目に付くところにいないので、一応聞いてみる。
 溺れていないのなら構わないが。いや、仮に足でも攣って溺れていたとしても、助けるつもりはないので気にはしない。
「沖まで競争するって言ってました」
「沖?」
 見遣った地平線には、それらしき姿はない。とっくに見えない所まで行ってしまったのか。
「まあそのうち戻って来るだろう。康一くん、何か食べるかい?」
「あ、はい」
 露伴に誘われ、康一は珍しく素直に従い立ち上がる。


 オレンジジュースを飲みながら、康一は露伴の横顔を盗み見る。
 本当に、ただ海を見に来ただけらしい。
 水着すら持って来ていないし、服装も普段町で会う時と大差ない。ただし、サングラスだけは胸ポケットに入っているが、それも使っているのかいないのか。スケッチをしていたのだから、多分、色の濃いサングラスは邪魔だろう。
「先生……泳がないんですか?」
 もう少しで『泳げないんですか?』と言うところだったのを何とか押し止め、無難な聞き方をしてみる。
「言っただろう? 僕は見に来ただけだ」
「はあ……それはそうなんですけど……」
 でも来た以上は、少しくらい水に入ってもいいような気がする。
 杜王町を出てからの数時間、露伴はずっと運転し続けていた。
 もしかしたら、泳ぐのも億劫なくらい疲れているのかもしれない。
 康一は好意的な解釈をし、無理に誘うのをやめた。
 泳げない、という可能性は、それでもまだ少しだけ頭の片隅に残っていたが。
 しばらく沈黙が続いたので、康一は何か話題を探す。
「先生あの……ありがとうございます」
「何のことだ?」
 それまで海を見つめていた露伴が、こちらを振り返る。
「こんな遠くまで連れて来てもらっちゃって……」
 遠慮がちにそう言うと、露伴はまた視線を戻し、素っ気なく呟く。
「別に。僕が来たかったんだ。礼なんかいいさ」
 この三時間、ずっと海を見ていたはずなのに。飽きずに何を見ているんだろう。
 康一は露伴の視線の先を辿ったが、見えるのは空と海だけ。
 海を見るだけなら、杜王町にいてもできる。
 康一の目には、普段町内で見ている海も、この海水浴場の地平線も、同じに映る。何も違わない。
「きっ……綺麗ですねっ、ここの海!」
 話が切れるのは嫌だったので、康一は強引にまた話しかける。
「そうかね?」
 露伴は康一の方など見ずに、浜辺を指差す。
「あそこには空き缶。あっちには、スナック菓子の袋。ああ、そこにもあるな、使用済みの花火だ」
「………」
「現実的で、人間の生活の匂いのする海だな、ここは」
 確かに、さっき泳いだ時も、波間にゴミが漂っていた。
 気にはなっていたのだが。
「せっ先生! 僕、ゴミ拾いに行きます!」
「……?」
 何で君がそんなことを?
 言われなくてもわかる。そんな顔をされた。
「だって先生、折角先生が取材に来てるのに、こんなんじゃ先生の作品に失礼です!」
「あるがままの姿だ、結構だと思うが?」
「僕がしたいんです! 行って来ます!」
 露伴が引き留める前に、康一は店の外に飛び出した。


 鈴美がいなくなって、一番落ち込んでいたのは誰か。
 絶対に露伴だと思う。
 そんなことおくびにも出さない人だが、なんとなくそう思う。
 第一、どんなにそれが近道でも、オーソンの前を通らなくなった。
 仕事の後、杜王町から姿を消す回数が増えた。
 一泊や二泊の旅行を毎週毎週重ねている。
 まさかそんなことはないと思いたいが、露伴がこのまま町から出て行ってしまうのではないか。そんな不安すら感じる。
 海が見たいなら、町の港に行けばいい。
 海水浴場だって、ちゃんとある。
 こんな遠くまで来なくても、町の中だけで済ませられる。
 口実だ。
 町から遠ざかる口実だ。
 一日二日留守にする口実に、海が見たいなんて言ってるんだ。
 それほど本気でもなかったのに、海で仕事をして。しかもこんな汚い海なんか描いて。
 折角来たんだから、本当に気晴らしをしてもらいたい。
 こんな海なんか見たって、気が晴れるわけがない。
 もっと綺麗な海を見た方が、絶対にいい。
 引っ越そうなんて気が起きないくらい、清々しい気持ちで帰ってもらいたい。
 康一は足許のゴミを一つずつ拾い集めた。
 こうやって知り合えたのに。仲間として信頼関係を築いて来たのに。
 一人だって欠けてほしくない。


 夕刻。
 目に付く大きなゴミを回収し終えた康一が戻った時、そこに露伴の姿はない。
「あのぉ、ここにいた、ペン先のいっぱいついた服着た人、知りません?」
 手近な人に聞くと、浜辺を指差された。
「どうも」
 仗助も億泰もまだ戻らない。
 露伴は何をやっているのか。
 ふと。
 砂浜に、他とは違う足跡を見つける。
 サンダルでも裸足でもない、革靴の跡。
「露伴先生だ」
 ビーチを革靴で歩き回っている人間など、他にいるわけがない。
 辿った足跡は、真っ直ぐに波打ち際に向かっている。
 そんな、まさか。
 嫌な予感がして、康一は走り出す。
 真っ直ぐに真っ直ぐに。
 続く足跡は、波間に消える。
 まるで、靴のまま入って行ってしまったかのように。
「せ……先生……?」
 いくら汚い海で悲しい気持ちになったからって、そんな馬鹿な。
「先生! 先生!」
 信じられない可能性を否定するように、康一は必死に砂浜を駆け回る。
 きっとその辺にいる。
 いるに決まってる。


 息が切れた。
 へたり込んでしまったその時、誰かが背後から康一の肩を叩く。
「康一くん、仗助と億泰はまだか?」
「!!」
 やった、生きてた!
 振り返った先にいたのは、やはり露伴で。
「よ……良かったぁ……」
「何がだ?」
 顔を見たら、急に涙腺が緩んだような気がした。
 気のせいではなく、本当に涙が出て来て、康一は慌てて両手で拭う。
「どうしたんだ、一体?」
「……先生の足跡が、海の中に……」
 何からどう説明していいのかわからず、ただ目にした最初の事実だけを告げる。
 それだけで、露伴はある程度察したらしく、呆れた声を出す。
「康一くん。海ってのは満ち干があるんだぜ? 潮が満ちてくれば、僕がいた辺りまで水が来るだろう」
「そ……そうでした……」
「それに、この僕が服のまま海に入って溺れるような間抜けに見えるのかね、君には」
「とんでもないです……」
 そんな露伴の言葉を聞いているうちに、康一は思い出す。
 この人は、“海を見ているうちに、なんとなく死にたくなった”なんて気持ちになるほど叙情的じゃなかったんだ、と。
 海は海。ただの風景。素材。
 そういう目でしか見ない人だった、と。


 タコとクラゲについて何か勘違いをしているらしい億泰が「火星人捕まえたぜ」と下らないジョークを言いながら、仗助と共に戻って来るのは、更に三時間後。
 そして、予定を大幅に狂わされた露伴は、急遽近くのホテルを手配する。

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