入道雲の向こう

 のどかな田園風景。
 の、片隅で、億泰はぼんやりと座り込んで空を見上げていた。
「……どうする、兄貴?」
 一際大きなあの雲の上に兄の姿を探すが、見つかるはずもなく、億泰は何度目かになる溜め息を深々と吐く。
「億泰さん」
 すぐ近くで名を呼ばれた。
 近くには誰もいないと思っていたのに。
 慌てて周囲を見回したその時。
「え……うわっ!」
 最初はカブトムシかと思った。
 しかし、よく見れば似ていたのは大きさだけで、形は全く違う。
「ア……アリ?」
 常識では有り得ない大きさの蟻が、億泰に話しかけている。
「わたしです」
 規格外の蟻は、すぐに未起隆の姿へと変化する。
「何やってんだ、変な恰好して!」
「変ですか? 蟻になっていただけですが」
「蟻ってのはよー……もっとほら、豆粒くらいでよー」
 指先でその大きさを示しながら、億泰は思った。
 蟻のサイズも知らないこいつは、本当に宇宙人かもしれない、と。
 一年前から杜王町に住んでいる宇宙人は、一年経った今でもその正体は不明だ。思い込みの激しいただのスタンド使いなのかもしれないし、本当に謎の力を秘めた宇宙人なのかもしれなかった。
 一通り、蟻についてのレクチャーを終え、億泰はほっと息を吐いた。
 こんなに真剣に蟻について語ったのは、生まれて初めてだ。
「ところでおめー、なんで蟻になってたんだ?」
 わざわざ変身して近付いて来る時には、いつも何か妙な出来事にぶつかっているので、億泰は少し慎重になる。
「はい。億泰さんが一時間以上ここに座っていたので、気になったんです。近付いて様子を見ようと思って蟻に」
 この場合注目すべきは、そんな億泰を一時間以上も見ていたことや、近付くだけのはずがご丁寧に声を掛けていたことなのだが、億泰はそういったことには気づかない。
「オレが何やってたかって?」
「はい」
 こんな宇宙人に話しても、わかるわけない。
 そう思ったが、誰かに言わずにはいられなかったので、億泰は未起隆に座るよう促す。


「実はオレよー」
「はい」
 億泰はまた遠くの雲を見つめ、ぽつりぽつりと語り出す。
「今度のテストで四十点取らないと、退学だって言われたんだ」
「退学って何です?」
 そんなことも知らないのか。
 仕方がないので説明しようとするが、億泰もどう説明していいのかわからず困惑する。
「だからその……学校から追い出されるんだよ」
「なぜです?」
「えーと……オレが頭悪すぎて、授業わかんねぇから、もう来なくていいってこと……だと、思う……」
 後半部分は、億泰自身もよくわかっていなかったので、曖昧な言い方で濁す。
「四十点取ればいいのですか?」
「だけどオレ、そんな点数取ったことねえし……二年生になれたことも奇跡みてぇだしよ……」
 口に出せば出すほど、無理だという意識が強くなる。
「仗助さんは?」
「仗助はあんまり勉強してる風じゃねえのに、そんなに悪くないんだよなー。真面目にやってる康一より成績いいんだぜ?」
「億泰さんは真面目に勉強しているんですか?」
 それを言われると、億泰も言葉に詰まる。
 また雲を見上げ、遠い思い出を振り返る。
「前はよー、学校から帰ったら兄貴がすぐ教科書開いてよ、その日学校でやったこと、もう一回解りやすくオレに教えてくれててよー……それでなんとかなってたんだ」
 しかし去年、形兆がいなくなってからは、その習慣も失われてしまった。
 兄貴がいればなぁ。
 もうそんなことは思わないようにしよう。そう決めていたはずなのに、結局はことあるごとに、兄のことを思い出す。
 朝食を父親と二人で食べる時。栄養のバランスを考えたりする時。部屋の隅を掃除する時。新しい靴を選ぶ時。
 兄貴がいれば、といつもいつも思ってしまう。
 来週のテストだって、兄がいたら、きっと毎晩徹夜で試験勉強につきあってくれただろう。
 一人で教科書を開いても、ちっともわからない。


 こいつは呑気でいいよな。
 そんなことを思い、隣の宇宙人を見る。
 と。
「そうだ、未起隆! おまえ、テストの解答用紙に変身しろ!」
「解答用紙ですか?」
「そう! 答え書き込んであるやつ!」
 名案だ。
 少々ずるいような気もするが、背に腹は代えられない。
「でも億泰さん、どんな問題が書いてあるのかも、その答えが何なのかも、わたしにはわかりません。変身できません」
 名案だと思っていた。
 だから、ひどく落胆する。
「そうか……そうだよな……オレって本当に馬鹿だよな……」
「きっと良い方法が見つかります。元気を出して」
 宇宙人に肩を叩かれ、励まされる。
「そうかな?」
 けれど、自分にはこれ以上最良の方法なんて思いつかない。
 が。
「いいこと思いついた! おまえ、鉛筆になれ! それでオレが床に転がす。で、おまえは誰か他の奴の答えを見て来て、オレに教えろ!」
 今度こそ、名案だ。
 完璧なカンニングだ。
「お言葉ですが……床に転がってしまったら、机の上なんて見えないですよ」
 今度こそ、名案だと思ったのに。
 もう立ち直れないかもしれない。
「それもそうだよな……オレって本当……」
「大丈夫、きっと何かありますよ、なんとかなります」
「だといいけどよー……」
 億泰はまた、雲を見上げた。
 あそこの上に、兄貴が立ってこっちを見ていたら、何て言うんだろう。
 見えない兄の姿を求め、億泰は更に雲を凝視する。
「オレ……学校クビになっちまうよ、兄貴……」
 やっぱりこんな宇宙人じゃあ話にならなかった。
 後から仗助に相談しに行こう。
 億泰はそう決めたが、今はもう少し、空を見ていることにした。

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