海岸線

 もうじき夏も終わる。
 町はいつもと変わらない。この静けさが、一年も二年も前から続いていたと、誰もが信じているかのように。
 露伴は最後の一枚を描き終え、封筒に入れる。
 今週分はこれで終わり。
 予定よりも早く仕上がったため、三日も余裕ができた。この三日間を、どう過ごすか。まだ何一つ考えていない。
 もうじき、夏も終わる。
 露伴は傍らの電話に視線を落とし、それからアドレス帳を開いた。


 露伴が年齢に見合わない車を所有していることは、誰もが知っている。
 しかし、乗ったことのある人間は、まだ誰もいない。
 一部の噂では、岸辺露伴はペーパードライバーだとか、ただの見栄で持っている車だとか、実はスピード狂だから乗らない方がいいとか言われていることも、本人は承知している。
 否定しない理由は、その噂が流れている内は、乗りたがる馬鹿者が出ないからだ。
 しかし、いざ誰かを乗せるとなると、その噂も早い段階で打ち消す必要があったかもしれない。
 露伴は助手席と、バックミラーに映る後部座席の様子を時々窺いながら、そんなことを思う。
 今、隣に座る康一は、シートベルトを握り締めたまま、緊張のし通しだ。
 後ろの仗助と億泰も、目を見開いて、いつ何があってもいいように身構えている。
「……何か、音楽でも聴くかい?」
 こんな狭い空間で、空気を張りつめられては、こちらも気分が悪くなりそうだ。
 露伴は康一に問いかけた。
「は、はい! いいですね!」
 どこを見て答えているんだ、君は。
 噂を信じているらしい。
 しかし、もう横に座って三十分以上。噂が眉唾物だったとそろそろわかってくれてもいいだろうに。
「ここにCDが何枚か……」
 露伴が右手をハンドルから離し、手を伸ばすと、途端に康一がぎょっとする。
「うわぁっ! 先生! 僕がやります! 僕がやりますから、前見てください!」
 失敬な。僕はずっと前を見たままじゃないか。
 康一は慌てて露伴を制し、そして後ろを振り返る。
「じょっ仗助くんっ、億泰くんっ。何聴く!?」
「オレはラジオでいい。露伴とは趣味が合わねぇ」
「じゃあ、オレ、ニュース!」
 少しは場の空気を読んでほしかったのだろう、康一は溜め息をついた。
「せっ先生、ラジオ入れても?」
「好きにしたまえ」
 露伴の申し出をあっさり断った。
 多少ムカつくが、今は運転中のため、仗助と揉めることができない。露伴は仕方なく、堪える。
 ラジオのニュースは、海岸沿いの道路での玉突き事故を知らせる。
 また、空気が重くなった。


 露伴はただ、夏の終わりの海を眺めようと思っていただけだった。
 康一にそれを伝え、だから二、三日留守にする、と教えただけ。
 しかし康一は、自分もこの週末暇だから、一緒に行きたいと行ったのだ。
「海なら、由花子くんと行けばいいだろう?」
「由花子さんとはプールに三回行きました。でも先生……僕達、高校生ですよ? 二人きりで旅行なんて、絶対にだめです!」
「……君は何を考えているんだ。僕は泊まって来いなんて一言も言ってないぞ。日帰りで海水浴に行けと言ったつもりだが?」
 康一は赤面したが、露伴はそれを見て、なるほどと思った。
 つまり、彼女と一泊旅行がしたいと、本当は思っていたんだな。
「僕は構わないが、僕と二人で海に行って、君はどうするんだ?」
 どうせ取材ばかりで、露伴は相手などしないと、康一はわかっているのか。
 しばし考えた後、康一はぽんっと手を打った。
「そうだ! 仗助くんと億泰くんも誘いますよ! 僕達は勝手に遊んでますから、先生はどうぞ遠慮無く、仕事でも休養でも!」
 確かに、露伴は突然思い立って仕事を始める場合がある。
 そうなると、康一に構ってなどいられない。
 だが。
 あの二人を連れて、海まで走れ、と?
「今年はいろいろあったから、夏休み中も町から出ませんでしたし。きっと二人とも喜びますよ」
「……康一くんがそう言うなら」


 ニュースは更に、カーブを曲がり損ねた車の転落事故まで伝え始めた。
「せ……せせせ先生っ……この道、急なカーブとか、ないですよね……?」
「幾つかあったと思うが?」
 露伴は以前に走った時のことを思い出し、そう答えた。
 が、康一は更に落ち着かなくなって、目を潤ませて訴える。
「先生っ! 安全運転が一番ですからね!」
「君は何処を見て物を言っている? さっきから僕は、たったの三十キロしかオーバーしてないぜ?」
 ちゃんとスピードは考えて走っているのだから、心配する必要などない。
 露伴は平然と答えたのだが、康一は青ざめる。
「先生っここ、五十キロまでしか出しちゃいけない道ですよ!?」
「周りを見ろよ。誰も走ってないんだから、これくらいは平気だ」
 こんな殆ど直線に近い道。誰が五十キロで走るんだ? 露伴はそう問う。
 康一は救いを求めるように、後ろの二人を振り返る。
「仗助くんっ億泰くっ……!」
 呼びかけて愕然とする。
 二人はいつの間にか、眠ってしまっている。
 いつ何が起きるかと脅えているよりも、寝ていた方がまだ精神的に楽だ。そう判断したのだろう。
 それに、出発前、仗助と億泰が互いに何か囁き合っているのを聞いた。事故の時、寝ている人間の方がケガが少ないらしいと、二人で真剣に話し合っていたことを、康一は今頃になって思い出す。
「どうしたんだね?」
「あ……寝ちゃったみたいです……」
「そうか。君も少し休めばいい。道路が混む時間を避けたいんで、朝四時に起きて貰ってるからな。途中何処かで停めるから、それまで寝ていていいよ」
 そう言われても、康一は素直に「はい」とは言えない。
 眠れないよ。
 怖くて眠れないよ。
 露伴がペーパードライバーだという噂。あれは嘘だった。ちゃんと慣れている感じがする。
 けれど。
 スピード狂だという噂。
 あれは本当だ。
 先程から、康一はこの車が何キロで走っているのか、そればかり気になって、ついつい目がそこに行ってしまう。
 今、九十キロを超えた。それでもまだ加速し続けている。
 汗で滑る掌で、康一はまたシートベルトを強く握り締める。


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