おやすみの合図

 正月は厄介だ。形兆が最も警戒する季節の一つでもある。
 それは、普段なら日中留守にする隣人が皆揃って在宅することにより、「そういえばお隣は何をしている人?」と日頃忘れている疑問を思い出す時期のため。
 他人に姿を見せるのは、形兆と億泰だけ。兄弟二人のみ。父親がいるらしいことは誰もが知っていても、見かけたことがないのは仕事が忙しいからだろうと勝手に判断してくれる。
 しかし、正月まで帰って来ないのは妙だ。
 そう思われないよう、毎年同じく気を遣う。


 そんな兄の苦労を知らない弟は、呑気に炬燵の中で蜜柑の皮を剥きながら、真後ろのソファで本を読んでいる形兆に呼びかける。
「なー兄貴」
「何だ?」
 テレビから目を離さない弟同様、形兆も活字を追ったまま答える。
「もうすぐセンター試験だろ? オレも三学期始まるから、試験の日は兄貴の弁当作れないんだよなー。どうする?」
 秋のあの日以来、億泰とはその件について話し合っていない。
 さすがの億泰も、堂々巡りになるとやっとわかったのだろう。
 だから億泰は知らない。
 形兆が、受験しないつもりだということを。
「自分の昼食くらい、自分で用意する。おまえは学校に行け。おまえだって受験生なんだからな」
 本から目を離さず、動揺することなく嘘を口にする。
 形兆の嘘を、億泰はこれまで一度も見破ったことがない。だからこれも、当然バレない嘘。
 案の定、億泰は全く疑うことなく、テレビを観ながら蜜柑を頬張る。
「オレはいいよ。どうせ受かんないし」
「高校は行け。何があっても、高校は卒業しろ」
「んなこと言ったって……」
 自信が無いのか、この上まだ三年勉強するのが嫌なのか。
「まだ間がある。オレが試験まで見てやるから、受かる」
 その言葉に、それまで小一時間見続けたテレビから初めて目を離す。
 形兆を振り返った目は、妙に輝いている。
「本当か!? 兄貴?」
 どうやらこの弟は、兄に勉強を見てもらえるということが嬉しいらしい。


「なー兄貴。晩飯何食う? もうおせちも飽きた」
 それを用意した形兆の気持ちを、全くわかっていないようだ。
 正月に正月らしく装わなければ不審を抱かれる。
 近隣住民へのアピールのために、わざわざ門松まで購入して見せたというのに。
 それを、飽きた、とは何事か。
「まだ半分も片づいていないのに、何を言っている。生ゴミを出すな」
「後で親父が食うんじゃねぇの?」
 一瞬戸惑う。
 が、ちらりと上を見上げる。
 二階から、今のところ物音は聞こえない。
 昼寝でもしているのか、呑気なことだ。
 確かに、あの父親ならば、何を食べても一緒だろう。億泰のように文句も言わない。
 本当の好物が何だったのか、それすらも忘れてしまいそうだ。
 それよりも。
「おまえ、変わったな」
「何が?」
 冷蔵庫を漁り、ジュースを取り出しながら、億泰は形兆をちらりと見遣る。
 自覚がないのか。
「いや。……じゃあ、ラーメンでも食うか?」
「出前?」
「通りのあの店はまだ休みだ。おまえが作れ」
「じゃあ、おせちでいい」
 父親に対し、以前よりも無関心になったような気がする。
 何年か前ならば、必死で人間らしくさせようと無駄な努力を続けていたというのに。
 ここ最近は、何処か諦めたような。
「じゃ、おせち食おうぜ。親父呼んで来る」
 テーブルに皿を並べた後、億泰は二階へと駆け上がって行く。
「……変わっていない、か……?」
 それでもまだ、家族団欒の体裁を整えることは止めないのだから、形兆が思っているほどの変化はないのかもしれない。
「あいつはテーブルに座っても、箸なんか使わないってのに」
 並べられた食器は三人分。父親の分の箸も、しっかり用意されている。


 食事の後、父親はまた二階へ戻った。
 いつものあの大きな音が聞こえる。箱をひっくり返している頃合いだ。
「兄貴は、何処の大学?」
 冷蔵庫に入っていたブルーベリーのヨーグルトを取り出し、口にスプーンを銜えながら、億泰が近づいて来る。
「何だ、急に」
 兄貴の分、と渡された同じヨーグルトを受け取る。
「だって受かったら、そこに引っ越しだろ?」
「まだ引っ越しはしない」
「なんで?」
 大学に行かないからだ、と言うのはまだ早い。
 そうでなければ、億泰も高校に行かないと言い出しかねないから。
「おまえだって、せっかく受かった高校から転校したくないだろう。オレもこの土地から離れない」
「じゃ、ここの地元の大学?」
 声には出さず、ただ頷く。
「そっか。じゃあ後四年ここにいるんだ」
 四年もいるかどうかはわからないが、しばらくは動かない。
「な、後で勉強教えてくれよ。数学」
「数学だけでいいのか?」
「んー……やっぱり全部」
 大学なんて、いつだって行ける。幾つになっても行ける。今でなくとも、行ける。
 あの父親の始末がついてからだって、遅くはない。
 全てが終わったその時、もし行きたくなったら。その時考えればいいことだ。
 だが高校は違う。
 特に億泰の場合は、年数を置くと、せっかく中学校で覚えたことも忘れてしまう可能性が高い。
 今の方が、まだ受かり易い。
 数ヶ月後、億泰が形兆の進学について問い質して来た時の言い訳は、もう準備できている。


「あれ? 静かになったな」
 底に残ったヨーグルトを必死にかき集めながら、億泰が天井を見上げる。
「寝たんだろう」
「そっか。じゃあ、兄貴、勉強しようぜ」
「おまえももう寝る時間だ」
 そう告げて、頭を軽く本で叩く。
「まだ早いじゃん」
 不満そうな声が上がる。
「時計を見ろ」
「あれ、もうこんな時間か」
 父親の体内時計は妙なところで正確だ。
 二階が静まる頃合いは、いつもほぼ同じ。
「さあ、寝るぞ」
 言いながら立ち上がった形兆の背中に、億泰は小さく呟く。
「なんで兄貴……親父と同じ時間に寝て、同じ時間に起きるんだよ。……親父に合わせてどうすんだ」

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