アルデバラン
母親。否、仮にこの星で母としている人が勧めるので、学習塾というところに通い始める。
学校、という組織には所属する義務があるらしい。それは最近やっと納得した。
しかし。塾、というのはよくわからない。
通った方が良い、という曖昧な存在だ。
それでも、母の言うことに逆らってはいけない。
それは故郷でもこの星でも同じだ。母には従順であれ。
ところで、母の言う通りに塾に通ってみたが、また妙な疑問が湧いた。
母の訓戒その一。夜遅く一人で出歩いてはいけません。
不良や犯罪者が横行する昨今、子供の一人歩きは避けるべきだから、だそうだ。
母の訓戒その二。
学習塾には通った方がいい。
勉強勉強、とにかく勉学。励むためには何時間でも塾にいた方がいい。遅い時間まで、外が真っ暗になるまで、塾にいた方がいい。成績が上がるから、だそうだ。
矛盾している気がするのは、自分が地球人ではないせいだろうか。
という話を、億泰は、父親と二人、人目につかない深夜の散歩中に、塾の帰りだという未起隆からされている最中だ。
ここに今、他に誰か冷静な人間がいれば、今の話の中に、つっこむべき箇所がいくつもあることを指摘するのだろうが、残念ながら億泰はそこに気づかない。
地球人だとか宇宙人だとか、根本的な部分はもう誰も気にはしない。
確かめる術もないし、いい加減、「宇宙人でもいいんじゃないか」と投げやりになっている人間も多い。
だが、捨てておけないのは、地球における日常的な部分だ。
塾で帰りが遅くなることくらいはあるだろう。が、今は、異質な風貌を持つ億泰の父親が外を徘徊しても不審に思われることのない、人通りの完全に絶えた真夜中、午前三時。
町内は完全に寝静まり、コンビニだけは営業しているが、それすらも数百メートル先だ。それ以前に、ここら一体は民家もない。町名物の鉄塔男の住居が、眼前にそびえているくらい、何もない地域。
この時間にこんな場所を通って帰るような塾は、町中探しても一軒も見つからないはず。
億泰が返答に窮している間、未起隆はぼんやりと空を見上げる。
冬の三時はまだ夜だ。夜明けはまだ数時間先。
街灯も殆ど無い、真っ暗な道の途中、見上げた先に拡がるのも、やはり暗闇。
視線を真上に固定したまま、未起隆は億泰を呼ぶ。
「億泰さん」
「あ? 何?」
塾と夜道の関係について、素直に悩んでいた億泰だったが、考え事の途中でも一応返事はする。
「帰りたい所、ありますか?」
「そりゃ、自分の家だろ」
詩的な情緒とは無縁の億泰は即答した。
が、未起隆につられるように空を見上げた時、微妙にバランスを崩し、ややよろけた。
「……っと、危ねー」
丁度背後にいた父親の、やや低い位置にある胴のおかげで転倒は免れた。
そんな父の姿を見、ようやく、この宇宙人が言わんとするところを、ぼんやりと感じ取る。
はっきりと理解したわけではないにしろ、だ。
「あー……」
父が人間らしい姿形をしていて、母がいて、兄がいて。
それを当然としか思わず、これっぽっちも幸せだと感じていなかった、そんな頃。
「ある。ガキの頃」
それが未起隆の望んだ返答であったかどうか。
他人の話を、あまり聞いていない宇宙人は、億泰の答えなど待っていなかったのかもしれない。
「帰りてぇのは……あのへんか?」
ただ空ばかり見上げるその姿と沈黙に耐えかねた。だから、冗談半分、真上を指差してみた。
「そうです! あそこです! よくわかりましたね、星はこんなに沢山あるのに」
自称宇宙人は満面の笑みを浮かべ、両手でしっかりと億泰の指先を握りしめる。
「帰りてぇなら、帰ればいいんじゃねぇの?」
冗談のつもりでそう言った途端、宇宙人は悲しげな目をした。
「塾に行った方がいいとか、夜道を歩くなとか、わからないことだらけ。この星に住むのは大変です。帰りたい。でも……」
「でも?」
「昔住んでいた別の星は、もっと大変でした。短い間でしたけど、大変でした」
「はあ……」
唐突に始まった身の上話を、上の空で聞きながら、億泰は身体を少し震わせる。
真冬の、午前三時。
未知の真ん中に立ち止まっていられるのは数分だ。
もう限界だ。寒い。
「アルデバランは、もっと寒くて、もっと訳の分からない人が住んでいて、馴染むのに時間がかかりました」
「ふーん……」
「たとえば、食べ物は立って食べる。椅子に座っていても、料理が目の前に現れたら立ち上がる」
「それマジ!?」
足踏みをしながら軽く聞き流していた話だが、途中からなんだか興味が湧いて来た。
「目上の人に会ったら逆立ちで挨拶。この時、まず左回りで後ろを向きます。右回りで前を向いたら、決闘の合図になりますから注意が必要です」
この場に、他の誰かがいたなら。
無理矢理にでも億泰を引き摺って帰ったはずだ。宇宙人の話の展開は、普通の人間には意味のない妄想だ。
だが、ここにいるのは億泰と、億泰の父のみ。
その後、一時間近く、未起隆のアルデバラン話を億泰は聞き続けた。
翌朝。
当然のように風邪を引いた億泰は学校を欠席。
期末試験初日をベッドで過ごすこととなった。
「なー……夜遅くまで歩き回って風邪引いて学校休むんだったら、夜中まで塾に行ってちょっとでも賢くなった方がいいかな?」
見舞いに現れた仗助に聞いてみた。
答えはすぐに返った。
「どっちにしろ、夜中出歩いたら、風邪引いて試験受けられねーんじゃねぇの?」
「そっかー……そうだよなー。仗助、頭いいなー」
熱で潤んだ、純粋そうな瞳でそんなことを言われた仗助は、だから億泰に教えられなかった。
アルデバランは恒星だから、人は住んでいないこと。
午前三時まで開講している塾は、杜王町にはないのだということ。
そして。
学校からここへ来る途中、母親の薦めで先月から毎日通っている大正琴教室へ行くのだという未起隆とすれ違ったことも、やはり億泰には言えなかった。
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