密やかに咲く
形兆が家に帰ると、億泰はまだ食卓で奮闘していた。
出掛けたのは二時間前だったはずだ。その時から今まで、億泰はそれを続けていたらしい。
「諦めろ」
この言葉も、何回言ったかわからない。
億泰は潤んだ目で形兆を振り返り、無言で頭を振る。
そしてまた、落ちたスプーンを拾い、父親の手に握らせようとする。
「無理だ。そいつには出来ないよ」
「……いやだ。絶対できる」
父親がちゃんと人間の形をしていた頃の思い出なんて、まだ幼かったこいつは殆ど覚えていないだろうに。毎日毎日、億泰は朝食の度にこうやって父親を座らせ、食事を摂らせようとする。
でももう、スプーンを握ったりすることなんか、この化け物にはできないだろう。
「おまえ、今日入学式だったんじゃないのか?」
「親父がメシ食うまで行かない……」
今日初めて袖を通した、中学校の制服。
それに気づいて、形兆はしばらくその姿を凝視する。
少し、袖丈が長い。卒業するまでには、この大きめの制服も窮屈になっているだろうと思って買ったのだが、それにしても大きい。
「初日からサボタージュか……。不良になるぞ」
「親父の方が大事だ」
二人の声も、きっと届いていない。
父親は焦点の合わない目で、皿の中身に直接顔を近づけて啜ろうとする。
「駄目だよ、ちゃんとこれ使って。ほら、こうやるんだ」
毎日毎日、もう何年も教えて来た。
それでも出来ないのだから、もう無理だと思う。
「諦めろ」
「いやだ。できるはずだ……だって、昔はできただろ?」
溢れる涙を堪えることもできず、億泰はまた父親の手にスプーンを渡す。
そんな弟と父の姿を眺め、形兆は複雑な気持ちになった。
見ていられない。
形兆はまたすぐに家を飛び出した。
通りの反対側に、正装した親と歩く中学生を見つける。
億泰が着ていたのと同じ制服だ。
「億泰の奴……結局、入学式に間に合わなかったじゃないか……」
この日に合わせて用意してやった制服や鞄。初日が肝心だっていうのに。もう式は終わってしまった。
それとも、行きたくなかったのか。
先月の卒業式も、朝随分渋っていた。授業参観の日も、運動会もそうだった。
息子に声援を送る母がいない。それだけなら、まだいい。他にもそういう子供はいる。
父親は、息子の成長を見守ってくれない。
そんな家庭も、無いわけではない。
ただ、こんな風になってしまった父親を抱えた家庭が、他にないだけで。
だったら言えばいいんだ。
形兆に言えばいい。
兄貴、一緒に行ってくれ。そう言えばいいだろうに。
学校行事の度に、形兆に「来てほしい」と言ってみればいい。今まで、億泰が形兆にそんな願いを口にしたことは一度もない。
あんな体になってもまだ、父親が生きているせいだ。
最初からいないのならば、億泰はきっと形兆に何でも頼むだろう。
なまじ生きているから、億泰は一縷の望みを捨てられない。
いつか元通りの父親になってくれるかもしれない、と。
そんな夢みたいな話、叶うわけがない。
あれが元に戻ることなど、有り得ない。
いっそ死んでくれたら、自分達兄弟はもっと楽に生きられるだろうに。
死んでくれれば、諦めもつく。
二人きりで、もっと前向きな生き方ができる。
「あんな不死身の化け物を殺せるならな……」
形兆はガードレールに腰掛け、通りの向こうを見遣る。
続々と帰って来る、新入生とその親。
自分だって、もっと億泰に優しくしてやりたいんだ。
あいつが頼むのなら、親の代わりに、一緒に入学式に行ってやったのに。
折角の式だってのに、あいつは家の中で生産性の無い作業を繰り返している。
せめて今日くらいは、余所の子供と同じように、あんな風に笑って過ごしても良かったはずなのに。
不意に落とした視線の先に、アスファルトの割れ目から咲く草花があった。
今の今まで、形兆が知らずに踏みつけてしまっていたその花の茎は、途中で折れていた。
こんな所で咲いている方が悪い。
形兆は花のせいにした。
無性に腹が立って、今度はわざとそこに足を乗せた。
「なあ億泰……親父、殺してもいいか……?」
どうせ社会的にはとっくに死んでいる人間だ。
今その命を絶っても、誰にも何の影響もない。
ここで今形兆が踏み潰した花。それ以下だ。
誰にも気づかれず、誰にも悲しまれない。
だったら、こうやって踏みにじって、その命を奪ってしまえばいい。
背後からは、明るい笑い声が聞こえる。
本当なら億泰も、あの中の一人だったはずなんだ。
自分は親代わりに着いて行って、一緒に笑っていられたはずなんだ。
あの父親さえいなければ、もっと……
もっと、違う人生を生きられるはずなのに。
形兆はまた顔を上げ、通りを行く中学生達を見つめる。
遠い憧れは、けれど自分にはひどく似合わないように思えて、形兆は自然、目を細める。
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