春怨

 カフェ・ドゥ・マゴの前を通った瞬間、仗助は嫌な予感がした。
 目が合ったからだ。
 そのまま行き過ぎるわけにもいかず、立ち止まって片手を上げる。
 相手は、いいところに来た、という顔で手招きをする。
 さっきは、なんだかにやにやしていた。こいつがこういう顔をしている時は、ろくなことがない。
 そう思うが、今更引き返せない。
 仗助は勧められるままに、隣の椅子に座る。
「なんか、いいことでもあったのかよ?」
「まさか。逆だよ、逆。だからちょっと付き合えよ」
 噴上裕也は、確実に自分の顔が一番良く見える角度を保ったまま、テーブルについた両手に顎を乗せた。
 何が『だから』なのかわからなかったが、仗助は丁度真後ろにいた店員を呼び、メニューを受け取る。


「で? 何があったって?」
 去年の夏に、ちょっとしたきっかけで知り合った噴上は、こんな軟派な外見からは想像もつかないほどのバイク好きで、大事なマシンの為に昼夜を問わずバイトに励んでいる。
 どんな仕事をしているのか、まだ聞いたことはない。
 多分、肉体労働系の、噴上としては他人に見られたくはない姿で精を出していると思われる。
 バイト以外の時間は、バイクを乗り回しているか、後は取り巻きの女の子と遊んでいるか、そのどちらかだ。
 それがたった一人で、こんなところでぼんやりしている。
 それがまずおかしい。
「女ってのは、執念深い生き物だってこと。知ってたか?」
「はあ?」
 唐突に、思いも寄らないことを切り出され、仗助は素っ頓狂な声しか出せない。
 やっぱり女絡みの話なのか、とうんざりしたのも事実だったが。
「それがよー……あ、俺が、夜のバイトしてるのは知ってたよな?」
「あ、ああ……」
 何の仕事かは知らないが。
「未成年じゃまずいから、二十歳だって誤魔化して雇ってもらってんだけど、店の客に一人、すごいのがいて……」
「ちょっと待て。おまえ、どんなバイトしてんの?」
 なんだか怪しい。
 まさか、とは思ったが、誤解かもしれないので、確認してみる。
「ただのバーテンだよ、バーテン。シェイカー振って、時々女と話したりとかするだけで」
 バーで酒を作っているだけだ、と噴上の口から言われても、仗助はその言葉を鵜呑みにしていいのかどうかわからず唸る。
 いや、逆に、きっぱりと「ホストだ」と言われた場合でも、きっと信じたくはないから、どっちにしろ仗助は悩むことになるだろう。
 それについて考えるのはやめ、仗助は先を促す。
「で、客がどうしたって?」
「毎晩毎晩俺の顔じっと見て、たまに涙ぐんでんだよ。俺が涙流したくなるほど美しいのは当然なんだけどよー、でもぼろぼろ泣かれちまったら気になるだろ? 昨夜、聞いてみたんだよ」
「………」
 美しい云々については、もう一々何か言う気にもなれない。
 仗助はその部分だけ聞こえなかったことにし、やっと運ばれて来た今日のお勧め紅茶を口に運ぶ。
 あまり好きではない味だったが、ろくにメニューも見ずに適当に注文してしまったのは自分なので、諦めて啜り続ける。
「俺の顔が昔の恋人にそっくりだから、昔を思い出して涙が出た、って言うんだぜ?」
「へー……ドラマみてえな話だな」
「違うぜ、仗助。俺が言いたいのはそこじゃない。……俺にそっくりな奴がいたってのは、まあこの際いいとして、問題なのは、俺じゃなくて、俺に似た奴のこと考えて泣いてたってことだ」
 どっちだっていいだろ、そんなもの。
「泣くなら、俺の顔に見惚れて泣けばいいってのに……おいっ、聞いてんのか、仗助?」
「ああ、聞いてるよ」
 仗助は思わず天を仰いだ。
 平和だ。
 去年の夏以来、町は平和で、こんな馬鹿馬鹿しい話で盛り上がれる。


「……それがよー、その恋人ってのと、こんな桜の季節に、散る花びらの下で、『無事に帰って来れたら結婚しよう』って約束したんだってよ」
「へえ……」
「で、そいつが結局帰って来なくて、花が散ると今でも思い出して泣いちまうってんだぜ?」
 そこまで聞いて、仗助は何かおかしいと眉を寄せる。
「なあ、聞いていい? その人、いくつ? それ、何年前の話だ?」
「五十年以上前だって言ってたな、確か」
「……どんな客相手にしてんだ、おまえ?」
 初老の婦人のロマンスを聞いて、ここまで盛り上がれる噴上が、正直凄いと思う。
「すげえのは、こっからだ。驚くなよ?」
 もう驚けねえよ。
 適当に聞き流すつもりで、仗助はカップの中身を空ける。
 飲み終わったら帰ろう。
「ここで会ったのも何かの縁だからって、自分ももう後何年生きられるかわからないから、ってなあ、俺に財産全部譲るって言い出したんだぜ? 不動産とか株とか、全部で五億だ」
「えっ!」
 カップの中身を吹き出すかと思った。
 仗助は必死で口を抑え、飲み込む。
「……マジかよ。今のは本気で驚いたぜ……」
 しかし、興奮を隠し切れない仗助に反し、噴上はそこで溜め息をつく。
「でもよー……」
「なんか条件でもあんのか?」
 まさか、結婚してくれとか、そういうことか?
「あ? ああ……一度だけ桜の下でデートしたいって。それはいいんだけどよ……」
「なんだ、簡単じゃねーか。してやれよ。婆さんの最後の頼みだ」
 噴上が本当に老婆と桜の下のデートをしたら、それはそれで見物だ。
 皆を誘って覗きに行きたいくらいだ。
「そんなことじゃねえんだよ、俺が気にしてるのは」
 じゃあ何だ?
 もうすでに仗助の頭の中では、噴上見物ツアーのプランが着々と立てられつつある。
「俺に惚れて、俺とデートして、俺に財産くれるっていうなら、俺は喜んでそうさせてもらう」
 噴上はそこで、何度も『俺』という言葉を強調する。
「でもよ、俺に似た男が忘れられなくて、そいつの身代わりでデートして、そいつの代わりに金貰うってのが許せねえ……なんで俺じゃねえんだ?」
「そんなのどっちだっていいじゃねえか。婆さんがそうしたいってんなら、させてやれば?」
 変なところに拘ってんだな。
 桜の下でムードを出している老婆と噴上の姿を想像し、笑いが込み上げる。
「俺本人じゃねえってのが……。俺の美貌に対する侮辱だろ、それは」
「……そういうもん?」
「おまえにはわかんねえのか、この俺の気持ちが!」
 頭を抱えながらも、しっかり計算した角度と表情を崩さない噴上の姿に、仗助はぽつりと呟く。
「おまえ……やっぱり露伴と話が合うんじゃねえの?」
「俺を、あんな自信過剰な我が儘男と一緒にするな……それより、どうすればいいんだ、俺は?」
 知らねえよ。
 好きにしろよ。
 付き合いきれず、仗助は噴上がまた苦悩している隙にそっと席を立った。

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