桜色の空
空港で、トニオ・トラサルディーは、自分が乗る便の時間を確認する。
少し早く来すぎてしまった。
後一時間は余裕があった。
日本行きの航空券をしっかりと手に握り、じっと見つめる。
今度イタリアに帰って来るのは、いつのことになるのか。
思い返してみると、自分の人生の半分以上を国外で過ごしている。
去年、久しぶりに帰って来た時には、もう一生何処にも行かないと心に決めていたはずなのに。
故郷の小さな町で、こぢんまりとした店を守って生涯を終えよう。そんなことを考えていた。
それが、それから半年も経たないうちにイタリアを離れることになるとは。
仕方がないことだ。
この国では、トニオの理想は受け入れられなかった。だから他を当たる。それだけのことだ。
日本はその点、良い国だと聞いている。
どんな料理にも平等だと。古い因習も何もない。新しく何かを始める人間を認めてくれる場所だと。
その気候のお陰で、その気になれば食材も豊富、はっきりとした四季の移ろいが楽しめ、独特の日本文化を取り入れることも可能。
以前、一度だけ日本の菓子という物を食べたことがある。
あれはどこでだっただろう。
何処かで、そんな経験をした。
サクラモチ、という名前だった。
忘れないように、何度も反芻したから間違いない。
日本に着いたら、時間だけはたっぷりあるのだから、そういったものも研究できるだろう。
小さな窓から、外を眺める。
珍しくも何ともない、どこにでもあるただの空港。
それでも、これがイタリアで見る最後の景色かもしれない。
最後にしては、随分無機質な景観だ。
「お外……」
遠慮がちな舌足らずの声。
なんとなく想像がついたので、トニオは腰を浮かしながらそちらに目を遣る。
五、六歳といったところか。
反対側の隣には母親がいて、人懐こい微笑を浮かべている。
「お外、見るかい?」
「うん!」
トニオはその女の子を抱き上げて席を立ち、今まで自分がいた場所に子供を下ろす。
「ありがとうございます」
更にトニオは、その母親を真ん中に座らせ、自分は通路側へ移動する。
「ご旅行ですか?」
品の良さげな、若い母親に話しかけられ、トニオも愛想良く答える。
「日本で、イタリア料理の店を開くんです」
「まあ、ご自分のお店を?」
「ええ。お客様に本当に喜んで貰うための店です。小さな店ですが、夢です」
「素敵なお話しね。私、日本語ってよくわからなくて……」
確かに面倒な言葉だと、トニオも思っていたので同意する。
「私もまだ簡単な挨拶くらいしかできないんです。日本に着いたら、まず語学の勉強が必要ですよ」
「あら大変……」
「お客様は皆日本人になるでしょう。言葉が通じないようでは、お客様に安心して来てもらえません」
「熱心な方なんですね」
熱心?
とんでもない。
当然のことだ。
客の為に開く店で、客とコミュニケーションが図れなくてどうする?
たとえまだ、『イラッシャイマセ』と『アリガトウゴザイマシタ』しか知らなくても、店をオープンする日までには覚えてみせる。
「お母さん、お外、ピンク」
二人で話し込んでいる間も、ずっと外を見ていた子供が、母親の袖を引いた。
「あら、本当。綺麗ねえ」
夕刻。空はまだ赤くはない。
その中間色を、子供は珍しげに眺めている。
つられるように、トニオも外を見る。
上昇する機は、じきに雲の高さに届く。
「サクラ……」
「え?」
知らず、そう呟いた。
トニオの声に、母親が弾かれたように振り返った。
「日本のドルチェに、サクラモチというのがあります。あの空のような、綺麗なピンクのお菓子なんですよ」
「まあ、お詳しいのね」
感心されてしまい、トニオは照れながら訂正する。
「まだそれしか知らないんですよ。でも、とても綺麗なお菓子でした。私も、あの色彩に馴染めるような人間になりたいです」
「日本人になるおつもり?」
真剣に語り出してしまったトニオに、若い母親は苦笑する。
「ええ! そのくらいの意気込みで。でなければお客様とお話しができない」
「本当に、貴方のお店に来る方は幸せね」
「ありがとう」
それで彼女との会話は途切れた。
彼女の娘が、とうとう雲だけの景色に飽きて、ぐずり始めたので。
今度行く国は、トニオのこの特殊能力を難なく受け入れてくれればいいのだけれど。
そんなことを願いながら、先程空港で買った、簡単な日本語会話の本を開く。
着いたらまず、サクラモチを食べに行こう。
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