ペンキのついたタオルに憧れ。
露伴は正直辟易していた。
愛想笑いを浮かべた編集者が「先生、是非とも」と菓子折と共に持って来たのは、月刊誌での短期連載の話。
断ろうかと思ったのだが、「先生なら連載の三つや四つ大丈夫ですよね」と、露伴の性格を大変正しく理解した言い回しで迫ったため、露伴もあっさり了承してしまった。
頷いてから気づいた。
それが、高校生を主人公に、学校を舞台とした物語でなければならないということに。
どうしてこの岸辺露伴が、そんなありふれた面白みのない舞台を主に描かなければならないのか。
だが今更だ。
下手なことを言い出せば、「やっぱりできないんだ」と思われる。
非常に不本意ではあるが、やらなければならない。
大変気乗りがしないが、やらなくては。
取材に行こう。
適当に町を歩き回っている高校生を二、三人捕まえて読めば何とかなるだろう。
スケッチブックとカメラを持って駅前に着いた時、そこに貼られたポスターに目が行った。
「……学園祭」
明後日から。
「……なるほど」
これは使えるかもしれない。
露伴はポスターの前でしばらく考えた後、目的地を変更し、バスに乗り込んだ。
件の高校の前で、露伴は浮かれる学生達を遠目に見遣る。
統一性など微塵も感じられない装飾をにこやかに制作する高校生。
目につくところにはいないが、校舎の中ではきっと、日頃から飽きるほど見ている顔ぶれ達も似たような作業をしているのだろう。
あまり遠慮することのない露伴は、そのままスタスタと門を潜る。
部外者の立ち入りを禁じている学校ではないので、特に誰も見咎めない。
もっとも、立ち入り禁止の所であっても露伴は踏み込んで行くタイプなので、最初からそんなことは全く気に留めていないが。
と。
何に使うのか、まだ完成には程遠い看板らしき物が目に入る。
その前では、男子高校生が二人、ペンキを抱えて口論していた。
「赤だろ、目立つから」
「青の方が感じがいいって」
何を作る気なのか知らないが、いざ色を乗せる段階になってから揉めるとは。
露伴は、見ず知らずの人間二人にずかずかと近づき、足下の缶の一つを指差した。
「向こうで見たんだが、門のアーチは赤で作っていた。他にも赤い物を、僕はたくさん見てしまったぞ。赤ければ全部目立つと思うのは間違いだな。僕はそっちの緑がいいと思う」
「はあ?」
突然現れた何処の誰かもわからない人間のアドバイスを、はいそうですかと素直に受ける人間はいない。
多少面食らったようだったが、二人は顔を見合わせた後、また青だ赤だと揉め始める。露伴の存在は無視することに決めたらしい。
だが。
それで引き下がる人間ではなかったのが、彼等にとっての不幸で。
「年長者の意見はありがたく受け取れ。……ヘブンズ・ドアー……『緑を塗る』と」
非常に素早い行動で、露伴は二人に同じ内容を書き込む。
別段露伴が口出すすべき問題では無かった上に、実際のところ彼等が何を描こうとしていたのかすら知らずに緑だと主張すること自体問題なのだが、本人は全く気にしていない。
気にしていなかったのだが。
「先生……ここで何を……」
「康一くんか」
倒れている二人。捲れている顔のページ。
それだけ見れば、何があったのかは一目瞭然。
「あの……僕のクラスメイトが、何かしたんでしょうか……?」
何もしていなくてもこういった横暴な行為をする人物だと知ってはいるが、一応確認だけはしておくべきだと判断したのか、康一は顔を引きつらせて聞いて来る。
「ペンキの色を決められなくて困っていたから、決めてやっただけさ」
「……そうですか」
多分絶対に違うだろうと思っていても口には出せない康一は、まだ真っ白のままのそれを見下ろして溜息を吐く。
「ところで先生……何でここにいるんです?」
生徒に勝手な書き込みをしたことは、もう言っても無駄。康一は話を変える。
「取材だよ」
「学園祭の?」
「勿論だ」
「……まだ二日先ですけど?」
「準備中の方が面白いかと思ってね」
たまたま今日知ったから、今日来てみただけなのだが、適当に言い繕う。
「康一くんも、何か作業中かい?」
露伴が指差したのは、康一の制服。
今は学ランを着ておらず、ワイシャツの袖を捲った状態。如何にも何か力仕事をしています、といった感じに首にはタオル。
白いタオルに、幾つかの小さなシミができている。
鮮やかな原色のそれらも、多分ペンキなのだろう。
額に汗し、体中にペンキ。
その姿に、しばし露伴が考え込む。
まともな学生生活を送ったことのない露伴には、強制参加の学校行事でここまで必死になる気持ちがわからない。わからないが、しかし、悪くはないと思う。
「高校生、か……」
どんなことにも夢中になれて、どんなことも楽しめる。そんな無邪気な子供のような一面を残す微妙な年齢。
今回露伴が描かなければならないのは、そういった人間達。
「先生?」
突然押し黙ってしまった露伴を訝しみ、康一が声を掛ける。
「いや……君は、何をしているんだ、と聞いただけだ」
「あ、はい。僕のクラス、喫茶店やるんで、その準備をしてたんです。……あ、そうだ」
喫茶店、で何かを思い出したらしく、康一はポケットを探る。
「これ、チケットです。もし時間があったら、来てください」
渡された手作りの券には、『おまかせセット八百円』と大きく書かれている。
「おまかせ……?」
「あ、詳しいシステムは、当日来てもらえればわかりますよ」
受け取ってしまった以上、突き返すわけにもいかない。
露伴は財布を取り出した。
「小銭の持ち合わせがないから……釣りはいらないよ」
そう言って、紙幣を一枚康一に握らせる。
「待ってくださいね、鞄取ってきますから、二百円くらい……って、ええっ!」
律儀な康一は、そうはいかないと踵を返しかけたが、ちらりと手の中の紙幣を見て固まる。
「せっ先生っ! こ、ここ……これ、一万円札……」
「それしか持ってないんだ。釣りはいいよ」
ほら、と見せたぎっちり詰まった財布の中は、全て一万円札だ。
「そんなわけにはいきません!」
そこだけは強く否定し、康一はやっと起き上がって作業を始めようとしていた二人の同級生を急かし、それぞれのポケットからチケットを集める。
「えーと……これが三枚と、こっちのが五枚。それから、これが六枚あるから……」
様々な種類の券が登場し、合計金額を計算する。
「だめだ……一万円にならないよ……」
「僕は構わないが?」
「僕たちが構います!」
根本的に、高校の学園祭で出される物は、市価より安く設定される。一万円分も飲み食いするとなると、一人では持て余す量になることは目に見えている。
「わかりました! 後は、当日来た時にお出ししますから!」
そうは言っても、手渡された券だけでも既に何人分あるのかという量になっている。これ以上の過剰なサービスはいらない。
「必ず来てくださいね!」
康一の真っ直ぐな目と、汚れたタオル。
それがどういうわけか眩しく感じるのは、既に露伴の気持ちが新作の主人公に入り込んでいるせいか。
「わかった……来るよ」
だから、露伴にしては珍しく、そんな前向きな言葉が出たのかもしれない。
お祭り騒ぎの只中に飛び込んで行くなど、普段ならば絶対にしないというのに。けれど、明後日は、きっと来てしまうだろう。
「取材が途中だから、来るよ」
「お待ちしてます!」
康一の横では、看板担当の二人が黙々と緑のペンキの蓋を開け始めていた。
いったいどんな物が仕上がるのか、それを見に来るのも悪くない。
露伴は片手を上げて康一の声に応えた後、取材の目的を果たすために更に奥へと移動する。
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