憂き心

 財産だけは相変わらず残っていた。
 こんな父親を抱えていては、一所に長居はできない。何年か毎に、逃げるように住処を変えた。
 そろそろ、ここからも離れる時期が来ているかもしれない。
 近頃、何かこの家について妙な噂が流れ始めている。化け物が出る幽霊屋敷、と言われ始めたからには、当然何らかのきっかけがあったはず。誰かが自分達の知らない間に父親の姿を偶然見かけてしまったのかもしれない。
 だとしたら、早々に引き払うべきだろう。
「億泰、次、何処に行きたい?」
 来年になれば、億泰も高校生。引っ越すにはいい時期かもしれない。
 そう思い、リビングでテレビを観ていた億泰に話しかける。
 熱中している時は聞こえないかもしれないが、億泰は絶対に、自分が語りかけた時だけは反応する。そういう弟だ。
 父親を横に座らせ、一緒になってメロドラマを観ていた億泰は、首だけ動かして背後の形兆を見る。
 家族愛がテーマの、お涙頂戴番組。
 面白いとか面白くないとかではないだろう。ただ、家族というものを父親に教えるための教材。
「オレはどこでもいいけど。兄貴、大学は?」
 中学や高校ならば、簡単に転校できるが、大学はそうはいかない。
 億泰なりに、形兆のことを考えていたのだろう。
 次に引っ越す時は、形兆の進学先の近く。そして四年間はそこから動かない、と。
 だから行く先も、形兆に合わせる。そのつもりで。
「大学? 何故オレが大学に行くんだ?」
 思いも寄らない言葉だったため、形兆は寄りかかっていたサイドボードから身を起こし、億泰を睨みつける。
「だって兄貴、頭いいしよー……この前だって、学校の先生から電話来てたじゃねぇか」
 兄弟二人きりであっても、親の財産がある身。大学に行く余裕もある。だから、是非行くべきだ、と何度説得されたことか。
「もうそろそろ、どこ受けるか決めたんだろ? そこの近くでいいよ」
 再びテレビを向き直り、億泰は父親と一緒に続きを観る。
「馬鹿なことを。オレは大学なんか行かないぞ」
「なんで!?」
 それまでの、のほほんとした態度から一転、億泰はソファから転げ落ちそうになりながら形兆に近付く。
「なんで!? だって兄貴はオレの自慢の兄貴だぜ! 大学くらい出ろよ!」
「大学なんか行ってどうするんだ?」
「大学行って、一流企業とかに就職して!」
 億泰の発想は安易過ぎる。
「オレにエリートサラリーマンが似合うか?」
「じゃあ、警察とか外交官とか……」
「公務員なんてガラじゃないだろう」
 言っていて、だんだん可笑しくなって来た。
 この弟は、自分に何を期待しているのだろう。
「億泰、オレはそんなのどうだっていい。親父をちゃんと死なせてやって、おまえを一人前にする。それが終わらないうちは、のんびり大学生なんかできないだろう?」
 これは本心。
 これだけは、本当。


 それで終わった話だと思っていた。
 それが翌朝になっても、まだ億泰はそのことにこだわっていた。
「なあ兄貴、受験勉強しねぇの?」
「おまえこそ、高校受験があるだろう」
「オレは元々バカだから勉強したって仕方ねぇよ。でも兄貴は違うだろ」
 中学生の弟に、大学に行けと説得されるとは思わなかった。
「な、来年はさ、久しぶりに東京に戻ろうぜ」
「どうして?」
「だって大学いっぱいあるだろ? 兄貴なら、難しいところだって受かるだろうから」
「億泰」
「……兄貴は、格好良く大学生やってくれよ」
 それは父親の面倒を自分が引き受ける、という意味だろう。
「都会ならさ、近所の人が無関心だから、親父に気づかないよな? 四年くらいは住めるだろ?」
「億泰」
「大学行ってくれよ、兄貴」
 なぜそこまで大学に固執するのだろう。自分の頭にコンプレックスがあるからか。
 残念ながら、形兆には最初からそんな気はない。
 高校に通っていたのだって、近所の目があるから、世間の同年代の人間と同じように振る舞うため。
 だがさすがにその後となれば、個々人の自由だ。人目を気にする必要はない。
 それに。
 昨日億泰が言ったような人生設計。
 そんな平凡な生活、夢のまた夢だ。
 今は一人でも多くのスタンド使いを生み出し、父親を殺せる能力を見つけ出さなくてはならない。
 呑気に学生なんかやっていられるはずがない。
「おまえこそ、受かりそうな高校は見つかったか? もう半年もないんだ、早くしろよ」
「兄貴も」
 まだ食い下がって来る。
「億泰、いい加減にしろよ」
 鋭い一瞥を向けると、まだ何か言おうとしていた億泰は一歩下がる。
 普段は温厚な振る舞いを心掛けていても、怒らせるとただでは済まないのが形兆だと知っているから。
 ここで、殴られてもいいから押し通す、ということができないのがこの弟の駄目な所だ。
「おまえがオレに合わせるって言うなら、オレの方で適当に選ぶぞ」
「……わかった」
 勿論、大学云々は抜きに。
 億泰は言外に告げられた内容をわかった上で、不承不承頷いた。


 学校に行きたがらない億泰を無理矢理送り出し、形兆は一つ息を吐く。
 父親は今、部屋で大人しく例の箱をひっくり返して遊んでいる。
 億泰には学校へ行けと言っていながら、自分は今日は休もうと思う。
「大学か……」
 子供の頃は、一度くらいはそんなことも考えた。
 父親よりも立派な人間になってやろうと、そんな将来を漠然と思い浮かべたこともあった。
 過ぎたことだ。
 あの父親が父親としてある限り、どんな未来も歪んで見える。
 郊外の一軒家であるここは、通学や通勤の人間が行き交う時間を過ぎてしまえば、後は静寂の中。
 急に思い立って、庭へ出る。
 ここへ越して来て以来、一度も手入れなどしたことがないそこは荒れ放題。
 古い大木は、どうやら栗の木だったらしい。
 実を結んで初めてそれに気づく。
 植物には殆ど興味が無かったので、どんな木が生えていようがどうでも良かった。
 たまたま去年、億泰が庭に出た時にそれを知り、楽しそうに栗拾いをしていた。
 今年も、既に実は幾つもある。
 週末には、去年のように、そこで億泰が一日中遊べるような状態になっているだろう。
「思い切り田舎がいいか」
 たとえば、近くに大学のキャンパスなど全くないような。
 大学生を見ることすら、滅多にないような。
 そういう土地で、数年過ごすというのはどうだろう。
「諦めが悪いな……」
 それが目に付いたら、感傷的になってしまうような気がする。
 これから先、そんな優しい夢は見てはいけないのだから。
 いっそ、春まで待つのもやめようか。
 来月か再来月にでも、引っ越してしまおうか。
 今の高校に在籍し続けていると、いつまでも担任が進学を勧め続けて煩わしい思いをする。
 いっそ、全部綺麗に捨ててしまった方が、気持ちも切り替えられる。
「億泰の進学先の方を探す方が重要だな」
 どんな土地に行っても、高校はあるのだから、適当に放り込めばいい。
 問題は、何処ならば、形兆の目的に適った人材が多く集まっているか、ただそれだけで。


 二階から、何か大きな物が倒れるような音が響いて来た。
「また親父か……」
 あまり騒々しくされると、まずい風評が広まる。
 やはり、早い時期にここを発つべきなのかもしれない。
 形兆はすぐに家の中へと戻り、階段の踊り場に立ち、上階の様子を伺う。
 音はまだ続いていた。
 仕方なく、一歩一歩段を上がる。
 父親の、何か訳の分からない行動を抑えつけるために。

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